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Episode 698 安心感を作るのです。

それを言っちゃあ、おしまいよ…

昭和の名優・渥美清氏が演じた映画『男はつらいよ』シリーズの主人公・車寅次郎(寅さん)の定番の台詞として有名なこの言葉について、最近いろいろと思うことが多くなりました。

この台詞は、テキ屋稼業の寅さんが故郷である葛飾柴又に戻った折に、家族やご近所とひと騒動起こして…埋め込んだ動画の中では「まるで野良犬」と言われて、我が身の行き場のなさを「それを言っちゃあ、おしまいよ」とポツリと言葉に残して出て行く、そんなお決まりのシーンで使われるのです。
出て行く寅さんの「やるせなさ」がある一方で、残された人たちの「気まずさ」もまた、4分ほどのこのシーンに描かれているのですよね。

でも…ほんの些細な出来事が、なんで「それを言っちゃあ、おしまいよ」に繋がってしまうのでしょうね。
そう考えた時、「言い過ぎ」「言葉を選ぶ」というというような、言動の社会性を考える必要があるのだと私は思うのです。

先日、私は X (旧Twitter) でこんな連続投稿 (POST) をしました(しかし…どうも、Tweet と言いたくなってしまいますね)。

以下、全文を掲載します。

「無礼者」という言葉は、上から目線で相手を断罪する言葉のように思うのですよ。
「無礼者」という言葉で相手の失礼を許す余地を示すことが出来るのか…と問えば、どうでしょうかね?
この言葉で対等な関係性が作れるのか…と問えば、どうでしょうかね?

もっと心配なのは、周囲の反応ですよね。
仮に「無礼者」と発言したのが私として、周囲の方は「無礼者」と相手を斬り捨てた私をどのような人だと見るでしょうかね?
私がオーディエンスなら「上から目線で言葉を投げつける人」として、今後の対応を考えるでしょうね。

信頼関係は、「作るに一生、壊すは一瞬」なのですよね。
壊してしまった信頼関係は、ごめんなさいでは元に戻らないのですよ。
それは相対した誰かと私のハナシだけではない、それを目撃した人すべてに影響することだと思います。

私が「ご自制なさい」というのは、そういうことです。(以下省略)

ここ最近のnote記事でもお話ししているように、ASDの核心は「他者視点のなさ(弱さ)」である…というのが、私の最近の考えの中心になっているのです。

その「他者視点がない(弱い)」ということの成り立ちや詳細な考察については、過去記事を手繰ってもらえば良い…と思うので、それは一旦横に置いて、今回はちょっと角度を変えて「オーディエンス」という立場からみたASDの私って…を考えてみたいと思うのですよ。

今までの「ASDの他者視点」に関しての私の考察は、私とあなたの関係…つまり「一人称と二人称」に、ほぼ限定されていたのですよね。
でも、世の中は私とあなた以外の大勢が暮らしているワケです。
家族や親族といった関係、友人や職場の同僚・学校のクラスメイトなど…その関係性の強さや近さは様々です。

近くにいるあなたは、私のことを良いもの悪いものよくみている、だからこそASD×定型(典型) によくある「カサンドラ」の問題なども起きるワケですけれど、その他大勢の「誰かさん」は、ASDの私をどのように見ているのでしょうかね?

恐らく…間違いなくその他大勢の「誰かさん」は、近くにいるあなたよりも、私に対する情報は少ないですよね。
でも、「誰かさん」も、私はどんな人なのかを判断しているのですよ。
では一体どんな情報で私を判断しているのでしょうね。

それは会った時の印象、言葉使いと言った雰囲気と、誰かから聞いた私の印象や出来事などをプラスして総合的に…で、多分間違いないと思います。
ただ…この時、忘れてはならないのは、私とあなたの関係にならない誰かからも、私は見られている…ということだと思うのです。

ASDの私は、他者の位置から私がどのように見られているのかを想像することが苦手です。
ですから、あなたはきっとこう考えている…みたいな「思考乗っ取り」や「自己完結」のようなことが問題が起こりやすいのですけれど、それは「私と直接関係するアクション」があって初めて発生するハナシなのですよね。

だから、その他大勢の「オーディエンス」との間に「思考乗っ取り」や「自己完結」は基本的に発生しないハズです。
でも、このアカウントの主である私の印象って、やっぱりあるでしょう?
それは「思考乗っ取り」や「自己完結」で今でも躓く、私の悩みや生活の本質とどれだけ繋がっているのでしょうかね?

冒頭に埋めた「寅さん」のトラブルの原因は、「トラ」と名づけられた犬が、家の庭でフンをしたことから始まります。
そしてその犬の素性…お寺でウロウロしていた野良犬を誰からともなく「トラ」と言うようになった…が語られ、「寅さん」がもっとしっかり生活していれば、犬に「トラ」なんて名は付かなかっただろう…と語られるのです。
そこには、家族や近しい人が思う「寅さん」への本当の気持ちは語られているのでしょうかね?
そこにはオーディエンスが思う「寅さん」のイメージがある…多分ね。

ASDの私は、目の前のことに一生懸命になって、あなたの視点から見える私の姿を見落としがちです。
あなたと私の関係で、失敗や躓きが多い私ですが、それでも何とか社会人として仕事をして食い扶持を得て生活できている理由は、オーディエンスにとって害のない存在だから…という部分はあると思います。
それを正に「受動」と言う…というのなら、それは甘んじて受けましょう。
ただ、だから外野からの声はなく、あなたと私のハナシができる環境を得たとも言えるのですよ。

相手を慮った丁寧な言動を選ぶことは、あなたと私の関係を保つだけでなく、外野からの私のイメージに大きな影響を与えることになると思います。

ありがたいことに私の記事を読み、中には「スキ」を付けてくださる方もいます。
どんなに正しい意見でも、私の言葉を聞いて下さる方がいなければ、私の言葉は誰にも届かない…。
その環境を作るのは、物理的なツールよりも、真っ当な意見よりも、先ず私という存在の安心感である…と思うのです。
それができているか…は、微妙ですけれど。

言葉を選び、安心感を作ることは、特に私のようなマイノリティな立場では特に重要なことだと、最近私はそんなことを思うのです。

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