見出し画像

Episode 686 「気付き」はとても残酷です。

ASDは、何も考えていないのか?

前回の記事に引き続き、今回もこの質問について考えてみます。

先ずは「前回のおさらい」です。
前回は「他者視点が無い(または弱い)」というASDの本質から考えた時、何らかの理由で他者視点の存在に気が付いたASD者が、定型一般とは違う人工的な方法であっても他者視点を考慮するとすれば、ASD者が「何も考えていない」とは言えないよね…と、お話したのです。

ただ…そうは言っても、他者視点を持ち合わせることが思考回路に組み込まれている定型一般からは、その「人工的な他者視点」の不自然さ故に「何も考えていない」と見えるワケです。
そこに意見の食い違いがあるとして、「何とかしてその食い違いの根っこが見えないかな」と無い知恵を絞ってみる…と言うのが今回のハナシ。

そもそも、さいこどくたーK(@psydrk)先生の言う「人工的」…とは何だろう…ということで、前回も引用させていただいた長文の連続ツイートを再掲。

今回の話題の中心になる「人工的」という表現を含んだツイートは、24連ツイートの16番目に登場します。
そして、そこから2つ後ろ…18番目のツイートがこのツイートです。

更にそれに続く19番目のツイート。

それがこだわり、独特の認知行動パターン。
回るもの、キラキラするものを認知する、ミニカーを並べるなどの行動で形成されるパターンが彼ら、彼女らが世の中と繋がるためのアンカーポイントとなる。 19/24

ここに来て、ASD的なアンカーポイントとして「ASD児特有の行動として知られる代表的なモノ」が登場します。
そして、ふと気が付くのです。
世の中と繋がるモノの存在…「そうか、『モノ』か。」…と。

K先生のツイートにある「回るもの、キラキラするものを認知する、ミニカーを並べるなどの行動で形成されるパターン…」が、なぜ世の中に繋がるアンカーポイントになるのか…を考えた時、ASDの私が興味を示しているモノに、あなたが興味を示した…としたらどうでしょう?

ここで私自身を題材にした「思考実験」を行います。
ASD当事者である私は、定型(典型) の方が自然と獲得する「他者視点」に気が付かない(他者視点を持ち合わせていない)として、私の感じている「他者視点みたいなモノ(代替品)」とは、一体なになのか?

K先生のツイートに戻って、改めてASDの本質を確認します。

「母親からこちらに向かう視線にきづけないこと」…つまりASDの私は、私に直接向かう視線を認知することが出来ないワケですね。
コレが意味するところは「私に対するあなたからの働き掛けはスルーだ」と言うことです。
裏を返せば、ASDの子どもが「人に対して関心がない」と言われる理由は、あなたの私に対する働きかけを理解できないから、私からあなたへの働きかけも存在しないことになる…。
だって、K先生が言う「他者のやり方を真似る」理由が存在しないことになるワケですからね。
「あなたが私に視線を送り、私が微笑み返すことであなたが微笑んだ」を理解できるから、「私があなたに視線を送り、あなたが微笑み返すことで私も微笑んだ」は成立する…これがK先生の言う「他者のやり方を真似る」だろう…と。

だから、あなたの視線を理解できない私は、あなたを真似て微笑み返すことをせず、私の興味に沿って「モノ」に対しての働きかけをすることに熱中するのですが、そうすると今度はあなたが私の興味を示した「モノ」に興味を示すワケです。
いいですか、私の興味を示した「回るもの、キラキラするものを認知する、ミニカーを並べるなどの行動…」に興味を示したのは、あなたです。
私の興味を示した「モノ」に、あなたも同じ様に興味を示した…コレが重要な接点になるワケです。

K先生の言う「モノ」がアンカーポイントになる理由を私なりに説明するなら、そう言うことです。

埋め込んだ「モノがあると安心です。」という記事を書いたのは2018年の10月末のこと。
この記事で私は、私とあなたとの関係を考える中で、「モノ」への共通の興味を共有できると安心感に繋がるのだ…ということを指摘しました。

ここを紐解くと、先日の「カオナシ」の様な親切の押し付けに見える行為型の自他境界の緩さも、あなたの体調や感情に釣られてしまう受動型の自他境界の緩さも、両方とも説明できる道筋が見えてくる…。

つまり、あなたの視点からの興味のあるモノと、私の視点からの興味のあるモノの一致(または不一致)が、あなたという別の考えを持つ他者の存在を認識させるキーポイントになる…と言うことです。
「他者視点みたいなモノ(代替品)」とは、特定の物理的に見聞きできる事象への評価を、あなたと私がそれぞれ行う…ではないか。

その「モノ」に対しての評価が一致することを喜び、一致しないことに悲しむとして、一致させることであなたに対しての親愛の情を表現するとしたら、あなたが欲しいものをどうしても知りたいと思うでしょうし、考えていることを知りたいと考えるでしょう。

さて、そうすると冒頭の「ASDは、何も考えていないのか?」と言う質問には何と答えたら良いでしょう?

ASDは…少なくとも私は、思考を働かせているのは間違いないから「全く何も考えていないと言うワケではない」のは前回と同じ結論になる一方で、定型(典型) の方が思う「他者視点」の獲得は一切できていない可能性は否定できない…という意味で、「全く考えていない(または考える能力がない)」という結論に至るワケです。

私の感じていた「他者視点の正体」の尻尾が、自閉児のミニカー並べという行動から脈々と繋がるのだ…という衝撃。
この気付きに私はただ天を仰ぐしかなかったのは、何処かに悔しさがあったから…なのかも知れません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?