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Episode 685 それでも必死に考えます。

ASDは、何も考えていないのか?

コレはTwitter上でASD当事者をディスる感じのツイートで「定番」のネタだったりします。
いわゆる「カサンドラ」と呼ばれる状態の方から多く聞く発言です。

カサンドラ症候群(英: Cassandra affective disorder)、カサンドラ情動剥奪障害(英: Cassandra affective deprivation disorder)」とは、アスペルガー症候群の夫または妻(あるいはパートナー)と情緒的な相互関係が築けないために配偶者やパートナーに生じる、身体的・精神的症状を表す言葉である。

Wikipedia「カサンドラ症候群」より

カサンドラ症候群は、現在のDSM(精神障害の診断と統計マニュアル)その他には認められていない概念ではあるのですが、その言葉が広く使われるほどに「定型一般×ASD」のパートナーシップが、現在のASDに関する一般的な社会認識ではなかなか困難なことなのだ…と、私は思うのです。
まぁ、この今回の記事では「カサンドラ症候群」に絡むASD当事者との関係性の問題を取り扱うつもりはありません。

ただ、「ASD当事者と上手く情緒的な相互関係が築けない配偶者やパートナー」であると言うことは、ASD当事者と相互関係を築こうとした当事者でもあり、時間と労力をかけてASD当事者を見て来た定型タイプの張本人でもあるワケですね。
その定型タイプの方々が、自らのパートナーに「何も考えていない」という言葉を向けるのです。

そこに至るまでのことや、それぞれの皆さんの悩みについて私が何か言及することは出来ませんし、「何も考えていない」という発言の範囲は、全てのASD当事者に対してではない…と理解した上で、それでもASD当事者は「何も考えていない」と言われてしまう理由は何か…は、考えてみたいと思うのですよ。

さてさて、私は「ASDの本質とは、他者視点のなさ(弱さ)である」ということを、薄々感じながらnote記事を書いて来ました。
私なりの表現を使えば、自閉の本質とは「自我のコントロールができない」なのです。

このことを確信に導いたのは、さいこどくたーK (@psydrk) 先生のこのツイート。

長文の連続ツイートの全文は埋め込みリンクから Twitter にジャンプしていただくとして、ASDとADHDの質的な違いを解説しながら次のツイートに繋がります。

ASDでも成長過程で他者が他者視線を持っていることに後天的に気づき、人工的ではあるが二次的に他者視線をなぞりはじめる。
これが早くできるとASD特性も隠しやすくなり(隠し切ることはできず、ASD診断はつく)、二次的ADHD特性も修正される。16/24

さいこどくたーK先生のツイートより

この、K先生のツイートの引用部分と「自問自答をするのです。」に私が書いた…

ASDは自閉症なんですよ、アスペルガー型でもカナー型でも、そこに知的障害があろうとなかろうと、私の気持ちとあなたの気持ちの「合意」を形成することに困難がある障害なのです。
合意を求めようとしないから自己完結してしまう…周囲からは周りと係わろうとしない人…で、自閉。
乱暴な言い方をすれば、「それではマズい!」と気が付いた自閉症者の中に、合意できないことを「誤魔化そうとする」ヤツがいる、それが一見して同じ症状だとわかりにくくしている…ってだけのことです。

note記事「自問自答をするのです。」より

…と言う部分がイコールで結ばれるワケですよ。

この、頭で考えた「後天的に気づき、人工的ではあるが二次的に他者視線」を持つということが、冒頭で触れた「ASDは何も考えていない」に繋がっているように思うのです。
具体的に言えば、前回のnote記事「私の位置が『お留守』です。」で書いた自他境界の緩さを扱った事例など…でしょうか。

「あなたは私と違う考えを持つ別人である」という理屈は分かるのですが、「常にそれを思考のベースに敷いて物事を考えられるのか」と問われると、これが難しいワケですよ。
何故ならば、それは人工的に意識することで、強制的に理解していることだからね。

ASDは他者視点がなく、あなたの視点から自分を見ることが出来ない状態が基本であるとした時に、他者視点がないが故にあなたの意見や気持ちを「そっちのけ」で自己中オンリーの行動をするとすれば、その方は一発で「自閉症者」としての診断が付き、現代社会においてでは、福祉と支援の対象者として保護されることになると思います。
でも、「カサンドラ」さんの相方のASD当事者は、おそらく福祉と支援の対象者として保護…されているワケではないですよね。
そこにはK先生が言う、「後天的に気づき、人工的ではあるが二次的に他者視線をなぞりはじめる。」を実践することで、少なくとも「相手には私と違う意思や考えを持ち、別の個人としてあなたの気持ちや考えを尊重する意思はある」レベルの自制心を持ち合わせているASD当事者がいるハズです。

ただ、K先生も指摘する通り、二次的になぞった他者視点でASD特性を隠しやすくしたとしても、「隠し切ることはできず、ASD診断はつく」ワケで、完全に定型同等の他者視点を持ち得る様になるとは考えにくい…ですよね。

冒頭の問いに戻り、「ASDは、何も考えていないのか?」…ですが。
人工的な他者視点の限界には個人差があるとして、それでも隠しきることが出来ずに診断が付くなら、定型一般レベルの情緒的な相互関係は難しいでしょうね。
でも、例え人工的であっても他者視点(またはそれを代替するもの)を持ち合わせ、社会に出て自立した個人として生活する糧を得るまでの適応を得た当事者が「何も考えていない」と言えるのでしょうかね?

ポイントは、あなたの言う「何も考えていない」は、何を基準に言っているのかになるのだと思います。
こう言わしめてしまう奥にある、ASD当事者もそのパートナーも、共に抱えるASD未自覚と無理解が、幸せを掴もうとして梯子を外された憎悪となってしまうようなことが、別の問題としてあるのですけどね。

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