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Episode 684 私の位置が「お留守」です。

この記事を書いているメディアプラットフォーム「note」を使い始めて3年が過ぎました。
その前身である某プロバイダのブログで細々と記事を書き始めたのは2018年の9月のことですから、発達障害を題材にした「読みもの」の初投稿から直に5年を迎えようとしています。
何だかんだと色々ありながら、長く続いたものだと我ながら感慨深かったりもします。

「note」も含めてブログなどのweb上の「読みもの」は、新しくアップしたコンテンツが最上段に上がり、古い記事は下がって行くのが一般的なのですよね。
だから過去記事を参照する…と言うのは、意外と面倒くさい作業なのだと思います。

ブログの作者がブログを書き始めた時、記事の更新がいつまで続くのかまで決めてスタートする人は殆どいないように思います。
ある時、増えてきた過去記事が時系列に雑然と並んでいることに気が付き、「さて、どうしようか…」と思うことになるのです。
少なくとも…私はそうだったのです。

それで、索引(目次) のページを作って、話題毎にグループ分けしよう…という作業を始めたのです。

この索引(目次) のページを作る作業が、結果として過去記事を読み返すことで「過去の私」の考えていたことを思い出し、今現在の私の考えを加味して思考を再構築するキッカケになったのは間違いないと感じます。

先日その索引(目次) のページに加えたこの「痛みを模倣するのです。」という記事なのですが、ASD当事者である私は、相方であるあなたの気分(機嫌) や体調に呼応して、同じように感情の浮き沈みをさせてしまうことがある…という現象について書いたのですよね。
元記事のアップは2020年の5月ですから、今から3年ほど前のこと。

あなたのことを思い、あなたが喜ぶであろうモノ(またはコト)を探し出して提供しようとする、宮崎駿監督の名作「千と千尋の神隠し」に登場する「カオナシ」の自己完結さには、ASD的な他者視点の弱さが見て取れる…このハナシはこのアカウントの記事の中で何度もして来たのですよね。
その「カオナシの暴走」と「ASDの私があなたの体調に同調してしまう」ことが、他者視点の弱さというキーワードで繋がるとしたら、それは驚きではありませんか?

千に薬湯の札や砂金を差し出して見せる「カオナシ」の献身は、とてもわかり易くASD的な他者視点の弱さを表現していますよね。
「あなたと私は違う考えを持つ他者である」ことの理解の弱さとは、あなたの立場から私にしてほしいことを想像することの難しさにあるワケです。
この場合「カオナシ」は、もしも自分が千の立場になったら薬湯の札や砂金が欲しいと思うハズ…という理論で動いていると考えるのが自然です。
ここに「千の本当の気持ち」は存在しないのですが、「カオナシ」は「千は薬湯の札や砂金が欲しい」と信じて疑わないのですよね。

もしも「あなたと私は違う考えを持つ他者である」と言うことがナチュラルにわかっているのなら、「カオナシ」は「千は私に何をしてほしいと思っているだろう」と考えるだろうと思います。
「私なら『お腐れ様』を洗い清めるために薬湯の札が欲しいと思うけど、千はどう思っているだろう」…とかね。
他者視点があるということは、私の考えを疑うことに繋がるワケですよ。
そこには私と違う考えを持つあなたがいて、あなたの意見を確認できていないことは「私の行動」を踏みとどまるストッパーとして機能することになる…違いますか?

結果的に「カオナシ」は、「私の行動」を踏み止めることが出来ず、私の気持ちを千に押し付けることになるのね。

その一方で、「ASDの私があなたの体調に同調してしまう現象」とはどんなものか…ですが。

もう一度、言います。
「あなたと私は違う考えを持つ他者である」ことの理解の弱さとは、あなたの立場から私にしてほしいことを想像することの難しさにあるワケです。
「カオナシ」が、もしも自分が千の立場になったら薬湯の札や砂金が欲しいと思うだろう…とは、「カオナシ」が千の立場にこの置かれた時に「カオナシ」自身が思う気持ちです。
千の位置に「カオナシ」がいたらこうする…つまり、千の立場を追体験した結果、カオナシが思う千の最善手で、ふたり揃って千の位置にいて、カオナシの位置はお留守なのよ。

他方、あなたがあることに腹を立てていても、私は腹立たしいとは限らないのよ…あなたと私は違う考えを持つ他人なのだから、違う考えを持つことがあるのは当然なのだけど。
でも自他境界の緩い私は、あなたが腹を立てているのに、私は腹立たしくない…ということに違和感を感じてしまうのです。
だから私はあなたの「腹立たしい」を追体験しようとするワケね。
コレも腹立たしいあなたの位置に私を置いてしまうから、腹が立っていないハズの私の位置はお留守です。

「あなたは窮地に立っている…だから、あなたを救うために私は何か行動したい。」…で、あなたの気持ちに成り済ましてアレコレ世話を焼こうとするのが行為型の自他境界の緩さ、「カオナシ」の、それ。
「あなたは何かについて怒って(悲しんで)いる…その怒って(悲しんで)いる気持ちを理解したい。」…で、私はあなたと同じ怒り(悲しみ)を私のココロに満すことであなたの気持ちに成り済ましてしまうのが受動型の自他境界の緩さ、同調してしまう現象は、これ。

どちらもあなたの立ち位置に私を置くことであなたの気持ちに成り済ますから、私の立ち位置にある「あなたの視点から見える私のカラダ」から、「私の視点から見た私の意思に基づく思考」が消えてしまうように見えるワケですね。

これを踏まえて次回は、よく言われる「考えないASD」とはどういうことなのか…を掘ってみようと思うのです。


ASD的な他者視点の弱さを扱った過去記事をひとつおいておきます。
索引(目次) のページを作ると、こういう過去記事の検索がやり易くなる…という枕話で振った「ネタの回収」もやっておきます。

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