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Episode 320 鏡を持っていないのです。

ASDの特徴のひとつとして「自他の境界線がゆるい」という点が上げられることがあります。
私も、おそらくこの境界線がゆるいの幾つかの事例に当てはまるのであろうと思っています。
ただ、未だにこの「緩い」という感覚が上手く自分自身で把握できなくて悩むケースがあってですね…。

自他の境界線が緩いことで真っ先に思いつく事例は「サリー・アン課題」でして、一言で言えば相手の立場に立つことが出来ないという事例ですね。
思うのですが…これって、普通の人は一人称と二人称の話として理解しているのでしょうか?
私は、サリー(私=一人称)とアン(あなた=二人称)の話としてこの話を聞けていないような気がしてなりません。
サリー(友達=三人称)とアン(友達=三人称)の話をしている私(=一人称)という感覚です。

例えば昨日のブログのような話ってどうでしょう
ふつうの人は私(=一人称)とあなた(=二人称)の食器を片付けることに関しての考え方の差…と捉えるのでしょうね。
考え方が違うのに、勝手して不快な思いをさせてしまう…ということですよね、きっと。
振り返ってみればその通りなのですが、その場の感覚として「あなたの感覚は私の感覚と違う」と私がキチンと認識できていたのか、すごく疑問です。
多分…私の感覚とあなたの感覚を一人称で囲ってしまっている感じ。
そこを「なんで」という言葉で「違うよ!」って指摘されてしまってパニック。
私を凹ませる直接のキーワードが「なんで」という言葉であるのと同時に、自分の中の緩い自他境界を「違うよ!」指摘されて理解不能の思考停止に陥る…なのかも。

例えば、男である私は女性の生理現象の悩みがどれだけのものなのか、正直言って分かりません。
毎月訪れるそれで大変そうなパートナーを見て、分かってあげられない私自身に苦しむって、無理やり痛みを一人称化しようとして、できなくて凹む感じ…なのかも。

一人称の私が「いなければならない自分の居場所」を放棄して二人称や三人称に入り込む…と言ったら良いのでしょうか。
「相手の立場に立って」と言われた時に、私が二人称のあなたの立ち位置に動いて…一人称の私は私の本当の立ち位置にいない。
たから、私があなたの視点に立った時に、私の姿は見えない。
きっと「相手の立場に立って」とは、相手の立ち位置から私を見なさい…なのですよね。
先程の空いたお皿のような私の理解できる話については、あなたの立ち位置から私の価値観でモノを見るだけで終わってしまう…。
だから、食べるのが私より遅いパートナーの視点からは、私の目の前の空のお皿が邪魔そうに見えるに違いないと思って疑わないワケです…きっと。

経験したことがない生理痛は、相手の立ち位置に立っても痛みの想像が出来ません。
それ故に相手の痛みが分からないことで私の中に発生する「一人称化できない不安」があるのではないか…きっと。

自他の線引きがキチンとできていないからこその自己不安や勝手な思い込みは、この齢になっても幾つも存在する様に思います。

「なぜ自他の境界線が緩くなるのか?」という質問に明確な答えを出せません。
自他を切り分けるトレーニングが出来ていないだけなのか?
発達障害の脳特性として先天的にそこが弱いのか?

ただ、そうなってしまう理由はわからなくても、一般社会ではあるとして疑わない「自他を切り分ける能力」が極めて弱い、「自分自身を他者からの目線でとらえる能力」が極めて弱い人がASD者の中には一定数いるような気がします。

自他の境界線が緩いとは、「鏡を持たない私が私自身を映し出せない」から発生するのかも知れないと私は思います。

そして、私も鏡に姿を映し出せない人たちのひとりなのだと思うのです。

旧ブログ アーカイブ 2019/7/31

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