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捨てたい―1.化粧

今の私は、非常にスキマの多い生活を送っている。暇さえあればその暇を有効活用せずぼーっとし、休日は半日ぐらい寝て過ごす。

しかし、これは自分なりに作り上げたスタイルで、生来こんな人間ではなかったと思う。もっとガチャガチャした感じだった。なんでそんな人間が怠惰に過ごしているのか?それは、ここ数年いろんな選択肢を目にしては迷って彷徨うことに飽きたからだ。そこで私は、考えたあげくに選択肢じたいを減らすことにした。減らし続けた。その結果、単純で怠惰な生活になった。まあ楽といえば楽な生活なのだが、何かを見失っている気がするのも事実である。特に最上のライフスタイルだとは思っていない。

そこで、記録として私が生活の中で変えたものを挙げていきたい。勝手に連載形式で。これはただ単なる私の記録であり、他人の役にはおそらく立たない。いや、立つ、かな?何かに囚われているけど抜け出せない…という方には、「ここまで色々捨てた人もいますよ」という励ましになるかも。

では第一話、はじまりはじまり~。

第一話:メイクを(ほぼ)やめる


以前はアイラインを引き、眉マスカラを塗り、もちろんコンシーラやハイライト、マスカラ、シェーディングまで欠かせなかった。それがある日、急に自暴自棄になりメイクをほぼやめた。「私はメイクしたくないのに、どうしてしているんだろう?」と思い、次いで自分の周りに「メイクはマナーだからやりなさい!」と押しつけてくる人はいないこと、そして個性的・魅力的になる方法はメイク以外にもたくさんあることに気づいた。え?メイクする理由なくない?やーめよ。もういいや。

今ここで、一度立ち止まって書き記しておきたいと思った。どうして私は、したくもない、そして強制されたわけでもないメイクをしていたのだろう?

それは結局、一言で言えば「化粧をしないといけない」という幻想に囚われていたのだ。

多くの周りの人間がしていた、YouTubeの人たちを見ていたらメイクをすることで自信をまとっていて素敵に見えた、化粧で自分が変わることに大きな好奇心を抱いていた…。そんなきっかけがあって、私は長い長いメイク工程を踏んで「化粧をして自分らしさを発揮している私」になったつもりだった。

でも本心では、いつも小さなモヤモヤがあった。メイクしなければすごく最高の気分になれるんだけどな、と思っていた。なんとなく肌全体がフタをされているような気分になるし、かゆいときに目や眉を掻いたりできないし、なんかメイクしてる状態って疲れる。というかメイク工程が長くてめんどくさい。机に置いた小さい鏡に向かってメイクするのは気が重くて、朝から頑張る気が失せる。

でもメイクを薄くするのは、結構勇気がいることだった。なぜなら、「生物学的に女ならメイクをしろ!」とか「メイクはマナーだ!」といった風潮があると思っていたから。私にとってメイクは、どこまでいっても「他人を慮るためにしなければならないもの」であって、自分の為にするものではなかった。それにしてもちょっとタンマ、どうしてメイクをすると他人に礼儀を示していることになるん?だって私、今まで誰かに「マナーとしてメイクした方がいいよ」って言われたことあったっけ?

否だ。一度として、私はメイクを強制されたことはなかった。ということは結局、「メイクはマナーである」と思い込んでいたのは私の方だったのだ。私は、理不尽きわまりないルールを勝手に内面化していただけだ。そして「化粧しないとみんなから批判される」と被害者づらしていた。あほか。あほだよね。自分の視界にはないものを、わざわざ自分から探しに行っていただけだったのだと、ようやく気づいた。

つまり、「メイクする」ということは別に他人への礼儀ではない。

こうして私は、第一段階の「化粧はマナーであるという思い込み」なる第一関門を解消した。

しかし、壁はこれだけではない。化粧を薄くするのに立ちはだかる第二の敵は、「ばっちり化粧をして自分らしさを追求し、表現しよう」という風潮だ。これは実際に、一定の世代に存在する風潮だと思いますよ。メイクが濃ければ濃いほど強い自己表現になるって思ってる人、たくさんいるよ。それで、「メイクすれば自分に自信がつくし、自分らしくなれるよ!」と言ってメイク神話に勧誘する人はそこら中にいる。でも本当に、ばっちり化粧しなければ自分らしくいられないのだろうか。濃い化粧をしなければ、私は自己主張のないつまらない人間になってしまうの?

自分で考えてみた結果、「そんなことはないやろ」という結論が出た。濃いメイクをすることは、「自分らしく居心地よくいられる」ことの必要条件ではないはずだ。薄いメイクだって、すっぴんだって、自分らしくいられるなら同じことだ。世の中のばっちりメイクを楽しんでいる方、あなたたちはそのままで素敵です。なぜなら、どんなメイクもノーメイクも、そこに意志があるなら同義だから。ならば私は、「メイクをほとんどしない」ことを選んでみようと思った。

それに、プルーストもこう言っていた。「素朴な顔なら、せめて飾り気なくいればいい」と。この言葉も、私の決意を固めてくれたと思う。

まあでも、正直に言うとフルメイクをやめたのは、こんな風にシステマチックに思考した結果ではない(ここまで書いといて!)。もう本当に面倒くさかった。嫌いだったのだ。メイクをする、という十字架を勝手に背負っている自分が。そうしてある日、この欲求不満が一気にバクハツして「もう終わりや!」と化粧を放りなげた。その後一定の期間がたって消しかすみたいな思考がまとまってきたので、こうして言語で再構築している。

じゃあ、そんなバクハツの後はどんなメイクをしているかって?

ものの一分で終わるようなメイクをするようになりました。

下地を塗って粉をはたき、眉毛パウダーを適当に乗せる。もうこれだけで私の化粧への体力は限界に達し、メイクを終了する。

メイクをやめた当時はこれほど化粧をしなくなったことが自分でも不思議だった。しかし、こう書いてみれば化粧をやめたことよりも、したいと思っていなかった化粧を長年続けていたことの方がよっぽどミステリーだ。どれだけ私は得体のしれないスライムに囚われていたのか。

最近、そんな得体のしれないスライムの正体に気づくことが多い。そいつらは、ただの枯れ尾花だということに。こいつらの存在に気が付いたら即座に捨てて、もっと身軽になりたい。

捨てちまえ、勝手な十字架。