見出し画像

【ちょっと一息物語】19時、緊急事態宣言発令。

【ちょっと一息物語】は、その名の通りコーヒータイムや仕事の合間、眠る前のちょっとした時間に読んでいただけるような短い物語です。今夜は、しがないサラリーマンが晩酌中に不思議な出来事に遭遇する物語です。それでは、ゆるりとお楽しみください。

いつもどおり残業を終え、帰り道にある飲み屋街をふらふらと歩く。

店にはわたしと同じような境遇の寂しい大人たちがひしめき合っている。あの焼き鳥屋にもこの鍋料理屋にもあそこのチェーンの居酒屋にも。まるで限られた範囲だけ海から顔を出す岩礁にトドたちが群れているように、ぎゅうぎゅうと熱気をもちながら。

画像1


今日はどの店にしようか。なるべく一人の至福の時間を邪魔されない静かな店がいい。そうだ、あの定食屋はどうだろうか。


お目当ての定食屋に足を運ぶと、いつもどおり客はまばらで皆備え付けのテレビを見ているか、スマホをいじっている。私にとっても居心地の良さそうな雰囲気が出来上がっている。ここにしよう。


「いらっしゃい」


しゃがれた声で店主が声をかけてくれる。席の案内まではしない。どこの席にも自由に座ってくれというのがこの店のルールだ。私はこのルールをとても気に入っている。この居酒屋に来たら、私は必ず唐揚げ定食とハイボールを注文する。それで1000円を切るから驚きのコスパだ。


ふと、カウンターの上に設置されているテレビを見る。画面では美人なキャスターがなにやら険しい表情でニュースを伝えている。


「本日19時ごろ、政府より緊急事態宣言が発令されました。対象となるのは、東京都23区。今後ロックダウンが行われ、他県との往来は一切禁止となります」


私が残業で心をすり減らしていたころ、世間ではなにか重大な出来事が持ち上がっていたらしい。店主に声をかけてテレビのボリュームを上げてもらう。


「これより、首相から国民の皆様への会見が始まります」


キャスターがそう言うと、普段より一層無愛想に見える首相の顔が映し出された。私はハイボールを一口のみ、唐揚げをつまんだ。

画像2


「えー、東京都民の皆様におかれましては、大変不安な思いで過ごされているかと存じます。わたくし自身、東京に身を置く立場でございますので、えー、まことに信じられない思いでございますが、どうか皆様、えー、落ち着いて冷静に行動し、決して都外に出ないようにお願いいたします。」


私は唐揚げのなんとも言えない歯ごたえを楽しみながら、もう一つほうばる。口中に鶏肉のほんのり甘い肉汁が広がる。それが喉の奥に流れていってしまうまえに、ハイボールを混ぜる。うまい。このひとときが人生における幸福な時間だ。


「えー、つきましては、本日19時より緊急事態宣言を発令いたしました。えー、このような事態は未曾有と表現するほかなく、まったくもって前例がないものですから、えー、正直、政府としてもどのように対応するのが最善なのか、判断しかねるところであります。しかし! わたくしどもは、必ず困難に打ち勝つでしょう。今わたくしから言えるのはそれだけでございます。それでは」


首相は深々と頭を下げて退場していった。その頭からは、なにか黒いモヤのようなものがふわふわと浮き上がり、煙のようになびいている。なんだあれは。

画像3

私は思わず、テレビを凝視する。そして周囲の人たちを見る。皆にもこの不可解な現象が見えているのだろうか。


私は思わず絶句した。その場にいる客全員が、首相のように頭から黒い煙のようなものがたなびいている。店主を見ると、店主からもゆらゆらとそれは発生していた。私は頭がおかしくなってしまったかと気が動転し、慌てて店の外に出た。すると、道行く人々全員から煙がモワモワと立ち上っている。


「これはいったい」


ふと、黒い煙が向かう先を見上げる。黒い煙は空へと消えていっているようだ。よくよく目をこらすと、夜空の中にどす黒い巨大な雲のようなものが渦巻いている。明らかに普通の雲とは違う。それは異常な光景だった。


空を見上げる顔に、ポトポトと雨が降ってきた。いや、正確には真っ黒な雨が。


さきほど飛び出してきた店の中から再びキャスターの声が聞こえてきた。


「このたび、東京都では都民の憂鬱指数が基準値の10倍を上回りました。そのため、本日より7日間かけて都民の憂鬱浄化が開始されます。繰り返します。このたび・・・」


私は何が何やら理解ができずにただ真っ黒な雨に打たれて立っていた。

これから我々はどうなってしまうのか。何が起こっているのかさっぱり分からない。私は不安と戦うために必死に思考を巡らせる。しかし、なぜだかどんどん頭の中が軽くなっていく。不安や恐れがどんどん薄くなっていき、頭の中が空っぽになる。はっと気が付き、私は自分の頭上を見る。


そこには予想通り、黒い煙がもやもやと立ち上っていた。

大事なお金は自分のために使ってあげてください。私はいりません。