見出し画像

”平凡に生きる”ことは尊いのだ

若い頃、私は極端な生き方をしている人に強く憧れていたことがある。

ビートたけしや友川かずき、ゴッホや中原中也などの過激な人生を辿っては、「自分もこういうダイナミックな人生を送りたい!」と息巻いていたものである。

正直、今でもそういう気持ちはなくなっていない。愛人を盗撮された仕返しに出版社に殴り込んだり、お酒と博打に命を賭したり、切り落とした耳を娼婦に贈ったり、恋人を親友に寝取られてそれを詩にしたりといったこととは無縁な生活を送っているから、そういう人生を体験してみたいと思う。

もちろん残念ながら私にその素質はなく、ただ平凡な日常を送ることに満足してしまうようなちっぽけな人間だ。多感な時期の私は自分の人生をそうやって蔑み、どうにか”何者”かになれないかともがいていた。

しかし、歳を重ねるにつれ、孔子の「中庸の徳たるや、其れ到れるかな」という言葉のように、人間は案外バランス良く生きているのが一番なんだと思うようになった。

超高級なブランドものの服でも激安のうすっぺらい服でもなく、そこそこのクオリティのものを身につける。タワマンでも六畳一間のボロ小屋でもなく、1LDKのちょっとキレイなアパートに住む。激辛でも甘口でもなく中辛のカレーを食べる。熱中しすぎず、無関心になりすぎず、ほどほどに何かにハマる。

そんなザ・平凡な生活を送ることはダサいことなのだと思っていたが、ダサいってなんなのだろうと改めて考えてみると、結局は自分自身で納得できる人生を送れるかどうかでしかないし、何より人様が懸命に生きている人生に”ダサい”もクソもあるか!という結論に至った。

そんなわけで、「なにか飛び抜けた人にならなきゃ」という意味不明な幻想をかなぐり捨て、平凡に生きるのっていいよなぁと平凡な文章を書いている次第だ。



大事なお金は自分のために使ってあげてください。私はいりません。