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正しいものをベンチマークにしないと、正しくはなれない

ホテルの価格設定のお話


先日、前職(宿泊施設のWebコンサル)の上司とランチをした時に、彼が「ベンチマーク」について教えてくれたことが印象的でした。大体こんな感じのことです↓

「宿泊施設の販売価格設定の担当者は、『近隣の競合ホテルがどんな値段で販売をしているか』をベンチマークにして、料金を決めるべきではない。なぜなら、競合施設が正しい価格戦略を実行しているとは限らないから。間違った価格戦略をベンチマークにして戦略立案をしても、間違った価格戦略を実行することになるだけ」。

実際、宿泊とか旅行業界にいると「競合より何%高くする・安くする」みたいな話を頻繁に耳にするんですが、その元上司は「競合施設の価格をベンチマークにするのではなく、需要予測などの理論に基づいて値段を決める」という手法を広める仕事をされています。かっこいいです。

※宿泊業界の皆さん、レベニューマネジメントの良いコンサルタントを知ってますので、気になる方はお声かけください。笑)

彼の話の本質は、「間違ったものをベンチマークにし行動をしても、本当に良いことはできない」ということだと思います。これはあらゆることにおいて言える、普遍的な事実です。

よく生きる、正しく生きるためには


突然ですが、誰しもこの人生を良く生きたいし、正しいことをしたいと思っているはずです。僕もそう思っています。その時に思うのは「人々が言っていることばかりを参考にして生きてはいけない」ということです。 なぜなら、みんなが言っている良さや正しさが、本当に良いものや正しいものだとは限らないからです。

もし一般的に言われている良さ・正しさが、本質的には良くも正しくもないものだった場合、それをベンチマークにして行動しても、絶対に良いこと・正しいことはできません。間違った価格戦略を真似して、間違った価格戦略を実行する宿泊施設みたいに、周りと一緒に間違えるだけです

一般論に懐疑的な理由


僕が「一般的に言われている良さ・正しさ」に対し懐疑的な理由の1つは、歴史上「大多数の人々が異様な考えを持っていた社会」がたくさんあるという事実です。社会が不安定な時には、多くの人が歪んだ考え方を持ちがちですし、僕は現代社会もだいぶ不安定だと思います。

もう1つの理由は、時代とともに良い・正しいとされているものが、コロコロ変化するという事実です。いまの社会で良い・正しいと言われている考え方の多くも、いずれ支持されなくなるでしょう。こんな移ろいやすいものが、本質的な正しさだとは思えません。

適切なベンチマーク対象


本質的な良さ・正しさを追求するのであれば、信頼できる基準をベンチマークする必要です。そのベンチマークは、時代や社会に関係なく通用するものであり、時間の流れによって変化することのない、不変の真理であるべきです。このような点において聖書は、信頼に足る基準を提供してくれるように思います。

皆さんは何をベンチマークに、自分の生き方を規定するのですか。一般的に言われていることですか。その基準は信頼に足るものですか。それともベンチマークなどなく、自分で自分の正しさや良さを定義するのですか。

信頼できる基準をベンチマークしつつ、正しく、良く生きていきましょう!

聖書の言葉

神は間違いを犯すことがありません。あらゆる正義と真実の源。言い換えれば、正義と真実そのものです。これが、前提となる大原則です。
その正義であり真実である神が、私たちに与えた究極の基準が聖書です。聖書の教えをもってすれば、何が真理であり、何が真理ではないかを見分けることができます。聖書を通してこの基準を手に入れることにより、私たちは良い働きを行うことができるのです。 良さや正しさを追求する者は、この基準をベンチマークにする必要があります。
神の言葉は、はじめの時から変わることがなかったし、この先も変わることがありません。どれほど時間が流れても、どれほど社会が大きく変化しても、神の言葉は不変です。
人は、自分の感情がいかに変わりやすく、周りの影響を受けやすく、信頼に足らないものであるかを認めるべきです。自分の感情の赴くままに生きる人生とは、地図ももコンパスもなく、ただなんとなくの気分で進んでいく航海です。風と波とに流されていき、ただフラフラして人生を終えることとなります。 聖書の基準によって生きることを決める時、私たちは感情の制約を超えることが可能になります。今のこの心の状態が良いものなのか悪いものなのか、聖書によって見極めることができるようになります。聖書は私たちを正しい方向へと導くコンパスであり、進んでいく世界について完全な記述をする地図です。


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