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『雪と椿 8』

※BL小説


「そんな」
 喜びよりもまず、不安がこみ上げてきた。伊織の身なりを見ていれば、堅実な暮らし振りが知れる。武家でも大身ならばいざ知らず、伊織のような若い侍が、それだけの金をどう工面しようと言うのだろう。
 ――何か無理なことでもなさるおつもりではないか。
 形のない不安が冷え冷えとした恐れへと変わっていく。
「そんな……花形の牡丹ならそんなお話もあるかも知れませんが、わたしなんぞに請け出すほどの価値はない」
「価値はあるとも」
「椿はこのままでも幸せです。どうか御無理はなさらないで下さい。伊織さまのお顔さえ時折見られるのであれば、椿は」
「何を言う。こうなった以上、本当ならばもう誰にも触れさせたくはないのだ。今日にでもここを出してやりたいが、金策の目処がつくまでにあと少しかかる。私が必ず出してやるゆえ、希望を持って待っていろ」
 椿の肩を包む掌は温かかった。
「お前がこのような日の差さない座敷ではなく、お天道様の下で笑って暮らせる日が来るのであれば、私はもう他に何も望むことはない」
 欲が削げ落ちたような、静かな決意をたたえた眼差しを見て、何故だか椿は一層不安を感じたのだった。


 再び、伊織の訪れは途絶えた。
 それでも椿は、想い人が必ずまた来ると信じた。
 伊織に愛された体を汚されるようで、陰間としてのつとめが一層辛く感じられたが、それでも嫌悪を顔には出さず、目の前の客の相手に奉仕を続けた。
 一日過ぎればそれだけ早く逢える日が来るのだと、そんな風に思って。
 髪には必ず椿の櫛を挿していた。
 そんな椿をあに達が影で笑うのを知っていたが、もう気になりはしない。菖蒲達も牡丹の手前があるせいか、もう面と向かって嘲ってくるようなこともなかった。
 伊織が最後に訪れてから半月ほどが経った。その日は夜半から雪が降っていたようで、昼下がりに椿が目覚めたときには、窓の外に植えられた寒椿が重たげに雪を被っていた。
 髪化粧の順番を待っていた椿の元に、禿が急いで近づいてきた。
「椿あにさん。座長がお呼びです」
 ――雪村さま。
 天井から吊り上げられるようにすっと立ち上がった椿の様子にただならぬものを感じたのか、椿付きの禿、小手毬が驚いたように目を瞠る。
 身支度途中の襦袢に一枚羽織っただけの姿で、廊下を小走りに急ぐ。禿が襖を開けるのも待てないで、床に手をついたまま顔を上げると、
「なんだね、騒々しい上にまだおろし髪で。お客様だよ」
 と座長が椿を叱った。
 座長は、禿だった椿を陰間に変えた男である。壮年とは言え、まだ舞台で大役を務める座長は、身体も引き締まり声もよく響く。大きな体に押しつぶされ男を受け入れさせられるのは辛く恐ろしく、よく響くその声で叱られると、今より幾つか幼かった頃の椿は震え上がったものだ。
 が、今は恐ろしさを感じる余裕もない。
 座敷には武家者らしい客人が通されていた。椿の胸が失望のために急速に萎んでいく。
 ――雪村さまではない。
「喜べ椿。身請け話だ」
 それではこの方は、伊織のお使いの方なのだろうか。
 伊織が迎えに来てくれるとばかり思っていた椿は、身請けという言葉に喜ぶよりもまず、伊織はどこにいるのだろうかとそればかりが気になってしまう。
 袴を付けた侍は、恭しい仕草で一通の書状を椿の方へと差し出した。
「雪村伊織殿より、この手紙を椿さまにお渡しするようにと」
 表書きには墨の色も鮮やかに、『椿様』と書かれていた。
 手紙を受け取る椿の心も手も、自分では何故だか分からない不安に細かく震えていた。

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