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『雪と椿 9』

※BL小説


 椿はもどかしい思いで文を開いた。


  *  *  *  *  *  *  *  *


 身代金の他に、椿が当座暮らしていけるだけの金子(きんす)を使いの者に託しおいた。
 また、勝手ながら小商いをするのに手頃な場所も、用意させて貰った。
 しばらくそこに住まって疲れを癒し、のんびりと暮らしたらいい。
 暮らしに馴染んで気力が満ちてから、何でも椿の好きな商いを始めてはどうかと思っている。
 ともあれ、何も焦ることはない。まずは市井の暮らしを楽しんだらいいと思う。
 身請けの際に行けず、心細い思いをさせて大変済まなく思っている。
 店の場所や暮らしの細々したことに至るまで全て、使いの者に聞けば分かるようになっている。
 まずは、そこを出て、用意した住まいに移って貰いたい。

   二月三日                     雪村 伊織                  

   椿どの


  *  *  *  *  *  *  *  *

 伊織らしい労りに満ちた文面ではあったが、手紙の内容はたったこれだけだった。椿の一番知りたいことが書いていない。
「雪村さまは今どこに」
「今日はおいでになれません」
「ご用意いただけたという、そこに行けば雪村さまにお会いできるのですか」
「わたしはただ使いとして参っただけですので、それは何とも」
 使いの者が視線をそらした。
 この人は何かを知っている。そして、それを隠している。椿は身請けの喜びよりずっと強い得体の知れない不安で、凍えてしまいそうだった。


 一座での見送りは簡単なものだった。椿を請け出した伊織も来ない上に、陰間が身請けされることもそうそうないことで、花魁をひくのとは違い人に触れ回る性質のものではなかったからだ。仕掛けからごく普通の町人らしいなりに着替えた椿が部屋に挨拶に回るだけで、あっという間に済んでしまった。
 椿を毛嫌いしていた菖蒲の部屋では、さも憎々しげに、
「男の囲われものなんざ、どうせ長く続きゃしないんだよ」
 と言われたが、それには取り合わずに頭を下げた。
「あにさん、お世話になりました。どうかお元気で」 
 一座の花形である牡丹の部屋に行くと、舞台化粧を済ませた牡丹に迎えられた。
「聞いたよ。あの櫛の旦那にひいて貰ったんだってね。好いた相手と一緒になれる子なんて、ここには滅多にいないんだ。椿、幸せにおなりよ。男なんぞ、寝床でいい気持ちにしてやりさえすれば、大概のことは聞いてくれるたわいのないもんだ。旦那に上手に甘えて、たんと可愛がって貰うんだよ」
 餞別にと総螺鈿細工で花鳥画が描かれた文箱をくれた。椿などは触れたこともない贅沢な品だ。
「こんな高価なものを頂くわけには」
「遠慮するんじゃないよ。お前は読み書きも達者らしいし、身を飾るものよりこの先必要になるだろうからね」
 このあにからは、苛められている折に庇って貰ったこともある。憧れて遠くから眺めているばかりだった牡丹と、親しく口をきいたのはこれが初めてだ。
「牡丹あにさんも、どうかお体に気を付けて……」
 胸が詰まって、それ以上は言葉にならなかった。
 仕掛けや装身具の類でまだ新しいものは、ほとんど座長に買い取って貰った。買値からすれば随分安い値に買いたたかれたような気もしたが、生活費の足しにはなりそうだ。
 そうでないものは、全部禿の小手毬に与えた。小手毬は泣きながら、
「椿あにさんがいなくなるのが、小手毬は寂しくてたまりません」
 と言った。
「手紙を書くよ。誰か文の読める人に読んで貰えばいい。いいかい、小手毬。お前も早晩陰子になるだろう。お前の身体を守れるのは、お前だけだ。下の始末は面倒がらずによくすること。肌が荒れるから、化粧も綺麗に落とすこと。あまり無体なことをする客がいたら、部屋の外に控えている用心棒に、必ず助けを求めるんだよ。座長に言えば、酷い客は出入りを差し止めてもらえる。後は……」
「あにさん、あにさん」
 小手毬が抱きついてくる。腕の中で泣きじゃくっている小手毬がいじらしくてならない。故郷に残してきた妹のかわりと思って可愛がってきた禿と別れるのは、椿にとっても辛かった。
 椿は、自分の持ち物の中で一番高価だと思われる紫檀の櫛を、そっと小手毬の袂に滑り込ませた。座長に安値で取り上げられないように、密かに懐に入れておいたものだ。
「誰ぞに取り上げられてはいけないから、大きくなるまでこれは隠しておいで」
 小手毬は椿の胸に縋り付き、声を上げて泣き出した。

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