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『雪と椿 2』

※BL小説


 座敷にはもう客が来ていた。
 特別な時間を過ごすのだという期待感を持たせるために、あえて待ち合わせの刻限より遅れて着くのも計算のうちだ。舞台で見初めた美少年の到着を今か今かと待ちながら座敷で待つ、その時間が既に前戯なのだと教えられた。
 襖の外側で三つ指をつき、禿が襖を開け放つと、椿は美しく結い上げた頭を下げた。簪の房がしゃらんと音をたてる。
「椿です」
「よく来た。そこは寒いだろう。早く火鉢に当たりなさい」
 雪村伊織(ゆきむら いおり)の声は、凛と張って部屋の空気を震わせた。
 目を上げて伊織を見れば、声に相応しい涼やかな美丈夫が、凪いだ表情でこちらを見ている。既に男の前には酒と膳が用意されていたが、それらに手を付けた様子はない。
「先に始めていただいてよろしかったのに」
 冷えた酒を下げさせ、癇を付けた酒を取り寄せると、椿は男の側に寄って酌をした。
「椿の田舎は、北の方だったな。今頃は、雪が深いのだろうか」
 椿は唇の端を上げて笑みを作りながら、またくにの話かと思う。
「どうでしょうねえ。一座で寝起きするようになってからの方が長いぐらいになりましたから、もう忘れてしまいましたよ。時に、一昨日から新しい演目がかかってますが、雪村さまも是非ご覧になってみて下さいな。牡丹(ぼたん)の藤娘はそりゃ、眩しいぐらいに綺麗ですよ」
 そう言って、話題を変えようとした。それなのに、猪口を口元に運んだ伊織は、
「椿は、くにに帰りたいと思うか」
 と尋ねてきた。
 心の中でため息をつきながら、椿は、このお方のこういうところが好かないのだと思う。伊織は椿の子供時代の話や細々とした暮らし向きの話ばかり聞こうとする。故郷にいた頃はどうだったのか。親兄弟は息災か。一座での暮らしに不自由や辛いことはないのか。
 身体を張った商売とは言え、こっちは夢を売っている。相手を心も体もいい気持ちにして悦ばせ、手管で酔わせ、贔屓にして繋ぎ止めるのが仕事だ。一夜限りの恋の真似事をしようという矢先に興が冷めるような話ばかりを求められて、椿は内心相当に苛立ってきていた。
「ねえ、雪村さま。一座にいる舞台子や禿は皆、くにで食えなくて親に売られてきたものばかりです。楽しい話があろうはずもない。忘れたと言うものを重ねて問うのは野暮というものですよ」
 普段椿は、客に向かってこんな風にぴしゃりと言い返すようなことはしない。ましてや相手はお武家だ。
 だが、椿はどこか追い詰められたような気持ちになっていた。いっそ、これで伊織が通うのを止めても構わない。
「……それはすまなかった。私は椿のことをもっと知りたかっただけだ。嫌な話を無理強いするつもりはなかったんだよ」
 椿は表情を改めて膝でにじり寄り、柔らかく身体を伊織にもたせかけた。
「それなら、もうお話はやめにして、もっと楽しいことをしましょうよ。今日こそ明けまで帰しませんよ」
 視線で続きの間に敷いてある布団の方を示し、男の手を取った。その手を合わせから胸元に引き入れようとすると、伊織はぎこちなく手を抜いた。目の縁が仄かに赤らんでいる。そんな顔をすると、凛々しい美貌の清潔さが際だった。
「今日は酒を飲んだら帰るよ」
「今日もお酒だけですか」
 このお人は椿を不安にする。
 それは、伊織が陰間の椿ではない椿を知ろうとするためだけではなく、もう三度こうして通っていながら、自分に指一本触れようとはしないからであった。
 陰間を侍らせて酒の相手だけをさせる客がないわけではない。だが、それは散々遊びを尽くした年寄りの粋人に限られた。わざわざ高い花代を出して、それも若い侍が買った陰間を抱かないというような例を、椿は知らない。
 好かない相手に身体を求められないならば、むしろ喜ぶべきところだ。花代はちゃんと払ってくれているのだし、とりとめのない話をするのが客の望みなら、身体を開かずに済んで得をしたと心の中で笑っていればいいのだ。
 それなのに、この胸に広がる薄墨は何だろう。
 初めての陰間買いで気後れしているのだろうか。態度は落ち着いているし、そこまで初なようには見えない。それでは、自分が好みに合わないのだろうか。それならば、三度も名指しで椿を呼んだのは何故なのだろう。
 やんわりと拒まれる時の、冷たい刃を当てられたようにひやりとする感じ、胸がじりじりと焼け焦げるような焦燥を、椿は他に知らなかった。だから、これは嫌悪から来るのだと、「このお人が好きでないからこんな嫌な心持ちになるのだ」と、自分で自分に言い聞かせている。
 自分でも理由がよく分からない惨めで辛い気持ちを押し隠し、椿は努めて明るい声を出した。
「雪村さまがわたしじゃそういうおつもりになれないのなら、もっと若い子に替わりましょう。雪村さまはお客様だ、わたしに遠慮なさることはないんですよ。もっとすれていない、可愛らしくて初々しい子が幾らもおりますから」
 それを聞くと、伊織はぎょっとしたように背中を起こした。
「何を言う。私は椿がいい」
 それを言ったときの伊織の目は澄んで強く輝いていた。まるで目の前にいるのが恋い慕う相手であるかのように、熱心に椿の顔を見つめてくる。
 椿は、伊織が分からない。伊織から情のようなものを感じるが、触れようとはしないその気持ちが分からない。分からないから苛立つ、煩悶する。初めて買われた日から、心がざわざわして、泣きたいような心持ちでいる。
 このままでは駄目だ。椿はいつにない焦燥に衝き動かされていた。
「おや、嬉しいことを。それじゃあ、もっとその気になっていただけるようにしないとね」
 椿は着物の合わせを両手でつかんでぐっと開き、白い胸が露わになるようにした。同時に大きく膝を崩したから、裾が割れて、練り絹の光沢を放つ脚が腿の辺りまで覗いた。

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