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『雪と椿 3』

※BL小説


 伊織の目尻を仄かに色づかせていた朱が、顔全体を染めた。目のやり場がないように顔を背けた男の膝に手を掛ける。日頃の鍛錬が知れる、筋肉のよく引き締まった感触だった。
「朝まででなくても、ほんの少しの間、身体の力を抜いてわたしに任せていてくだされば、極楽に行ったような心持ちにして差し上げますよ」
 もしもこれで何も感じないようなら、伊織は椿では駄目なのだ。
 今まで感じたことのない気後れを押しやって、椿は身体を伊織に擦りつけるようにしながら、男の膝に置いていた手を身体の中心へとずらしていった。
 硬い生地に包まれた伊織のおとこの部分が、手や口で奉仕するまでもなく尋常より強張っているのを知って、椿は思わず手を引いた。精悍な体付きに見合った量感を感じて、指の先がじんと痺れたようになっていた。
 伊織が昂ぶっている。椿に対して、欲情している。
 椿の身体の奥の方から熱い塊がこみ上げてきて、頭がのぼせたようになった。
「ね。抱いて。たんと可愛がって……」
 喘ぐ息の狭間に零れた言葉は技巧でも何でもない。椿は本心から男に抱かれたがっている自分を知った。固い装いの中に包まれた伊織の熱い肉が欲しくてたまらない。
 ――あれを中に挿れて、思い切り突かれたい。
 想像しただけで、内肉が男の硬く野太いもので擦り上げられているような感じがした。喉が干上がり、口の端も目尻も激しい興奮で吊り上がっていく。
 男の欲など嫌と言うほど身体で知っているはずで、感じている演技はすっかり板についてはいても、本心では肉の交わりで悦びを感じたことなどない自分が、どうしてこうまで興奮してしまっているのだろう。
 伊織の帯に手を掛けたが、筋の張った腕によってその動きを止められた。
「どうして。こんなにしているじゃありませんか」
「こういうことは、椿の気持ちがもっと私に向いてから」
 見え透いた言い訳だと思った。
「わたしは陰子ですよ。陰子の気持ちなんぞ、お気になさるのはおかしい。……本音では汚いと思っておいでなんでしょう。散々他の男に抱かれた体がお嫌なんだ」
 自分の言葉に自分で傷つき、下唇が震えた。
 もっと酷い言葉でいたぶることを好む客が、幾らもいた。殴られ血の滲んだ唇に薄い笑いを浮かべて、要求される奉仕をしていても、身体ほどには心が痛んだことのない椿だ。それなのに、このお人に汚いと思われていると思うと、絞り上げられるような痛みを感じる。
「違う。仕事とは言え、好きでもない相手に身を任せるのはさぞかし辛いことだろう。どうやら私は好かれてはいないようだし、せめてお前がもっと私に慣れて隔てが取れてからと思っているだけだ」
 顔を赤く染め、椿と視線も合わせられない様子でいる純な侍の様子を見て、自分とは何と隔たりのあるお人だろうか、と思った。見初めた娘と逢い引きをしているかのような伊織の言葉を、遠く感じた。
 ――このお人は、陰間茶屋で遊ぶようなお人柄ではない。こんな場所は、この方には似合わない。この方に似合うのは、もっと清らかで真っ当なこと。例えば、武家や大店の奥で大切に育てられた器量も気立ても優れたお嬢さんを妻女に迎えるようなことだ。
「これをお前にやろうと思って持ってきたんだ。手を出してご覧」
 伊織が懐から何かを取りだして、椿の掌に載せた。
「こういったものを買うのは初めてで、選ぶ間に酷く汗を掻いてしまった。気に入らないかも知れないが」
 掌の上には、朱漆も艶やかな櫛が乗せられていた。
 漆塗りの朱の上に、蒔絵の金で繊細な椿が描かれている。上等の品だが、それこそ椿が先程頭の中に思い浮かべた、いいところのお嬢さんにこそ似つかわしいような、品のいい可憐な櫛であった。
「嬉しい」
 自分のものでないような、掠れて小さな声が出た。

 また来ると言って、はにかんだような笑みを浮かべ、伊織は帰っていった。
 椿の身支度を手伝おうと入ってきた禿が、驚いたように目を瞠る。
「椿あにさん?」
 今椿が髪に差しているのは、ある大店の主人から贈られた紫檀に螺鈿の高価な櫛だ。人とは違った趣向を好む客は椿に激しい苦痛を与えたが、その埋め合わせのように衣装や装身具を贈られることがあった。
 紅い漆の櫛が何十本買えるのだか分からない豪奢な紫檀の櫛よりも、掌にある小さな朱塗りの櫛の方が、比べようもないほど嬉しい。
 その気持ちに気がついたとき、椿は悟った。これは生まれて初めて知った恋だ。同時に、この櫛は自分のような者には相応しくないということにも、嫌と言うほど気付いてしまった。
 禿がそろそろと近づいた時、椿は櫛を胸に抱き、涙を流していたのであった。

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