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『雪と椿 4』

※BL小説


 一日の勤めを終えた椿は、手早く下の始末をした。たらいの湯を替えて、髪を洗う。長い情交のために崩れた髪が、地肌まで汗に汚れて何とも不快だったからだ。
 昨夜相手をした客は、ここ半年ほど通ってくれている馴染みの客だ。鳶の仕事で金が入るとその足で来てくれるのはありがたいのだが、若くて体力のある男は何度でも椿を貪ったから、全身が重だるく、何度も貫かれいいように擦られた後孔が腫れてぴりぴりと痛んでいる。
 明けの光が射し込む座敷で、洗い髪をざっと束ね、襦袢姿で手の中に握ったものをぼんやりと見つめていると、禿が肩に半纏を着せてくれた。
「椿あにさん、風邪をひきます」
「ありがとう、小手毬」
 そこに、賑やかな声が表から入ってきた。あにさん格の陰間達が戻ったようだ。
 馴染みの客を橋のたもとまで送り「後朝(きぬぎぬ)の別れ」をしてきた帰りらしく、三人ともまだ崩れた化粧をざっと直したままだった。剥げかけたおしろいから覗く灼けていない肌が、朝の容赦ない光の中で酷く不健康に見え、椿はそっと視線を外した。
 一番年かさの菖蒲(しょうぶ)が、椿の手の中にあるものを見とがめて、さっそく囃すような声を上げた。
「ちょっとご覧よ。またこの子は、櫛を眺めていたんだ」
 今年二十一になる菖蒲は、舞台子としては啼かず飛ばずであったが、男好きする顔かたちをしていたから、茶屋の方ではそれなりに売れていた。が、売り時が過ぎかけていることもあって、近頃では客が付かない日もあり、酷くピリピリしている。
 何年も前に、菖蒲の客が椿に乗り換えたことがあった。もめ事が起こるのは嫌だったので、椿は再三断ったのだが、上客だったため座長から直に言われて仕方なく相手をした。案の定、盗った盗られたの騒ぎになり、それ以来目の敵にされて、ことあるごとに菖蒲と仲のいいあに達から苛められていた。
「たかが櫛一本で岡惚れかい?」
「相手はお武家だろう。お前、ちょいと見られるご面相をしていて読み書きができるからと言って、高望みが過ぎやしないかえ」
 他のあに達からも折り重なるようにして言葉を投げつけられる。
「第一、あれっきりお見限りなんだろう? おおかた、冷たい石みたいなお前を堕とせるか、誰かと賭けでもしていたんだろうよ」
 意地の悪い笑い声が弾けた。
 読み書きは、十四の頃にある客から教わった。椿が本を読むことに関心があることを知ると、その客は子供用の手習いの本を探してきてくれた。
 疲れ切った身体を休める間を惜しんで、一人で床に指先で見えない字を書いて、それを学んだ。まだその頃は、いつかはこれが娑婆に出たときの役に立つのだという希望を持っていたのだ。
 あに達の嘲る声に、椿は何も答えなかった。言われなくても、好きになろうがどうなるものでもないことは、自分が一番良く知っている。
 それでも、忘れられないのだ。二度とは来ないかも知れない。でも、もしかしたらまた来るかも知れない。そう思うだけで胸の中が甘く痛む。苦しいけれども、椿は今の自分を不幸だとは思わなかった。
「こいつ、しれっとした顔をして、返事もしやがらねえ。その取り澄ました様子が憎らしいんだよ。そんな顔をして、人の男をたらす泥棒猫のくせに。ええ、自慢の面を引っ掻いてやろうか」
 菖蒲の声が大きくなり、剣呑な気配を帯びる。やっちまえ、そうだ、とあに達から囃す声が飛んだ。
「何の騒ぎだい」
 大きな声ではないのに、その声がかかった途端、騒がしかった座敷がシンと水を打ったように静まりかえった。
 豪奢な打ち掛け姿の、目を射るほどに目映い若衆が、座敷に入ってきた。
 一座で一番の売れっ子、牡丹であった。やはり、朝まで過ごした自分の贔屓を送った帰りなのだろうが、身繕いにも髪にも乱れたところは一切ない。
 流石当代一と噂される人気役者だけあって、鼈甲で揃えた髪飾りも、黒から翡までのぼかしの総絞りに緋色の牡丹を染めた仕掛け※も、錦紗の帯も、群を抜いた豪華なものだ。
 が、金のかかった身なり以上に、凛と背を伸ばしたその立ち姿の艶やかさには圧倒されるような華があった。
「通りまで声が聞こえていたよ。静かにおし。何を騒いでいるんだい、菖蒲」
「椿がお武家から貰った櫛を後生大事にしているから、岡惚れしても空しいだけだと教えてやっていただけさ」
 すると牡丹が菖蒲に視線を流した。「ひとたび舞台に上がればその目で両手両脚の指に余る男を殺す」と言われる牡丹にじっと見られて、流石の菖蒲も怯んだ様子だ。
「花火みたいに散る恋だって、空しいばかりであるわけはない。逢わぬ時にも想わぬ程度ならば、芸の肥やしにもなりゃあしないよ。人の恋路に差し出口をきいている暇があったら、その乱れた髪と顔をどうにかしたらどうだい」
 黙り込んでしまった菖蒲達は、化粧を落とすためにそそくさと奥の座敷の方へ散っていった。
 牡丹は椿に向かってふわりと微笑み、
「可愛らしい櫛だ」
 と言うと、側を通り過ぎて行った。通るとき、麝香(じゃこう)の良い匂いがした。
 椿はもう胸がいっぱいで、櫛を握りしめたまま、庇ってくれた牡丹に礼を言うことさえできずに後ろ姿を見送っていた。

                        ※仕掛け…花魁の打掛

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