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『雪と椿 5』

※BL小説


 漆塗りの重い高下駄ではどんなに急いても歩く速さは知れていて、気持ちだけが先へ先へと転がっていってしまう。茶屋の座敷の前に着いた時には、椿は着物の上から見てそれと知れるほど、胸を大きく喘がせていた。
 座敷の前へ崩れるように座り込んだ椿は、少しでも気を落ち着けようと、今しも襖を開け放とうとしている禿に仕草で待てと合図をして、息が整うのを待った。
 開いた襖の前で三つ指をつく。
「……椿です」
 待ちきれずに頭を上げると、そこには昼夜を問わず思い浮かべていた愛しい男の顔があった。
「椿。ああ、本当に椿だ」
 深い声が全身に染みわたる。伊織の涼やかで男らしい風貌の中で、瞳だけが熱く湿って見える。
「久し振りだね。入っておいで」
 椿は座敷に入り、前と同じように手の付けられていない膳を見やった。
 前の訪れから、ひと月と10日が過ぎていた。目が、男を貪るように見たがっている。全身の肌がもっと近くに寄りたいと騒いでいた。
 喉奥から痛いような塊がせり上がってくる。早くしないと、気が挫けてしまう。
 椿は、ここに来る前から心に決めていたことを告げるために、小さく息を吸い込んだ。
「雪村さま」
「うん」
「またわたしを呼んで下さって、嬉しいと思っています。ですが、こういうことは、これで最後にしていただきたいんです」
 伊織の凛々しい面差しが翳った。
「もう、顔を見るのも嫌か」
「そうじゃありません。わたしはこのひと月余り、雪村さまのことをずっと考えてきました。雪村さま。どうか、陰間茶屋などに通われるのは、今日で終いになさいませ。雪村さまにはこういう場所は似合いません」
 そう言うと、何を思ったのか伊織はほろ苦く笑った。
「確かに私は野暮かも知れないが」
「そんなことを言ってやしません。こんな場所で、大事な時間やおあしを遣ってはいけないと申し上げているんです。わたしは雪村さまのお家のことは何も分からないけれど、貴方さまの男ぶりとお人柄なら、ご縁は幾らでもあるはずだ。どうか、相応しい奥方さまをお迎えなさいませ」
 話すうちに声は低くなり、顔はどんどん俯いて、畳に付いた指の上に触れんばかりになった。
「顔を上げてくれ」
 と言われたが、椿は顔を上げることができなかった。
「私は椿が好きだ。椿より他に側にいて欲しいと思う者はない。だが、お前に何も強いるつもりはなかった。私のそういう気持ちが、お前には重かったのか。櫛などやったせいで、お前の心に負担をかけたのだろうか」
「櫛は」
 椿の声は喉に絡んで震えていた。
「本当に嬉しかった。本当ならばあの櫛もお返しするべきなのでしょうけれど、……どうかあれは思い出に、椿に下さい」
 胸の合わせの中に入れた朱塗りの櫛は、椿のたった一つの宝物になっていた。いつか伊織が、他の誰かにこの櫛を与えるかも知れないと思うだけで、死んでしまいたくなる。初めて知った恋は、椿の短い来し方の中で、唯一純白に輝く記憶であった。それを、いつまでも忘れないでいるための、よすがであって欲しい。
 指先に、熱い雫が一滴、二滴と滴った。
 伊織は膝行で椿に近づくと、椿の涙に濡れた指先を両手で握りしめ、俯いた上体を引き上げた。椿は、泣き濡れた顔をそむけた。
「椿。……お前の気持ちが聞きたい。私のことをどう思っている」
 声色が変わった。伊織にこのようなところがあったのかと思えるような、有無を言わさぬ気迫だ。
「お答えすれば、わたしが言ったとおりに、茶屋通いはこれきりになさってくださいますか」
「返答による」
 凛列たる声だった。椿は嘘をつくことはできないと悟った。
「……貴方さまをお慕いしています。だから、これはわたしの誠から申し上げていること……雪村さま?」
 強い力で抱き寄せられた。初めて伊織の胸の厚みと温み、逞しい腕の力を感じて、頭より先に体と心が目眩がするような歓喜に酔いしれてしまう。
「お前も私を思ってくれているのなら、もう私も遠慮はしない。椿。今宵、お前を私にくれ」

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