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あやとり家族四十三〜父が自宅介護となってわかった母のこと〜

父に無視され続け1ヶ月後

ようやく話すことができた

私からではなく父からだ

「これからどうするんだ、中途半端に投げ出して帰ってきたんだお前は」
「これを挽回するのは大変なことなんだぞ」

すずちゃんのために、私のことを留学させた

その間に自分の患っている癌が悪化して

留学している私が頑張っていることを、自分の病と戦う糧にしていた

自分勝手だと思う

それで”中途半端で帰ってきた”とか言われて
1ヶ月も無視されて

元はと言えば、ばーちゃんが連絡してきたことから始まっているのに

知っていたのか知らなかったのかも今ではわからない

どちらにしろマザコンだからばーちゃんよりの意見になっていただろう

私はまず車の免許を取りに行った
何も助けてくれない家族だから
お兄ちゃんの原付を借りて午前中はアルバイト(豆腐屋)
午後からは自動車講習所に通った

バイト先でもらう豆腐屋やガンモは美味しかったらしく、家でも好評
「また持ってきて」と遠慮なしに言う母

バイト先では社長に気に入られ、免許が取れたら配送で雇いたいと申し入れがあった

月30万と言われたが断った

じーちゃんのことが大好きだったから
老人ホームで年寄りの世話がしたかったからだ

と同時に父の余命が近いこともわかっていたから
おむつ交換の技術でも習得すれば役に立つと思った

父の入院先に1番近い施設を探したが採用は20歳からだった

当時私は19歳
施設へ連絡し確認すると19歳でも良いと

面接はいつできるかを問われ
「今からでもいい」と伝えそのまま面接へ行く
いつから働けるのかを確認され
「運転免許の試験を受けに行くからその後からなら」と答え
採用決定

初任給は13万だった

それでも介護の技術が学べることに喜びがあった

そんな矢先父が自宅へ帰ってきた

医師は自宅療養は無理と言ったが本人がいうことを聞かなかった

医療用ベット、車椅子、車椅子が乗せれる用の車
家に段差はスロープを自作して

当時は自宅で介護するシステムがない時代

父のわがままを受け入れた結果こうなった

主治医からは、何かあったら電話をと自宅の電話番号を教えてもらっていた
更には、病室も父のために開けておいてくれた

そして1週間に2、3回
お昼休みの時間を使って先生と看護師が自宅に訪問し、診察や治療をしてくれていた

床ずれが既にできていたためその処置をしてくれる
今では訪問診療なんて当たり前だが、当時はなかった
全くのボランティア活動

父は段々と衰弱していき、寝返りさえうてなくなった

それからは昼夜問わず家族中呼び出される日が続いた

「ベットだと痛いから車椅子に乗りたい」
みんなで「せーの」って移動する

その10分後
「ベットに戻る」と言い出す父

またみんな集まって移動する

これを毎日何十回と繰り返す

癌による痛みが強く身の置き場所がなかった父

癌が発症したとき私は高校生だった
そのとき父がふと言った言葉がある

「死ぬときは家で死のうな」

麻薬を使っていたため、脳内思考が普通ではなかったが
この気持ちだけは持ち続けていることがわかった

だから夜中だろうが何回起こされようが
父のために移動を繰り返した

会社で習ったおむつ交換のやり方も習得し実践することもできた

「便が出たかもしれない」
父は綺麗好きだったからすぐに取り替えてもらいたい

「この間だって、そう言って出ていなかったじゃない」
母が言う

母の言葉からは、面倒くさいという表現にしか聞こえない

「おむつに手入れて便がついたら出ているんだよ!」
って咄嗟に出た言葉

母に対しての怒りの言葉でもあった

「お父さん、確認してみるね」
そう言って手を入れるが便は出ていなかった

「お父さん出ていなかったよ」
そうすると安心して一瞬の眠りにつく

こういう事だ
母はいつもそう、昔から

自分は頑張っている、やっている、でも誰からも認められない
それを私に押し付けてきた

心というものを全く感じなかった

末期癌、余命宣告もされている
そんな父に対してもそういう態度でしか表現できない

”怖い”と思った

こんな母に育てられた私
だから今こうやって苦しむことになっているのが納得できる

表現がうまくできない
自分を大事にできない
人の顔色ばかり伺っている

心のアンテナが外にばかり向いている
今は自分に向ける訓練中





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