【期待しないこと】は、心を楽にし、肩の力を抜くおまじない

こんにちは、ほしまるです。

先日暖かかったの日があったのも束の間。寒い日が続きますね。

どうか皆さん、暖かくして、ゆっくりお過ごしくださいね。

☆☆☆

わたしは、時に期待し過ぎてしまう。

情けないですが つい最近 、そのことに改めて気がつきました。

何故だろう。

とても簡単なこと、既に無意識でも実行出来ている考えを応用すれば、

私はもっと早くに、もっと楽になれたのかもしれないのに。

いや、そうでもないのかな。

この段階で、この歳で、気づけただけでも良かったのかもしれない。

都内へ行ったのは昨年1月が最後だし、昨年2月から基本的にリモート、最低限の外出以外 ほぼ家での生活ゆえに 今はなかなか満足にはできないけれど。
一人で食事、お茶、時には一人飲みをすることは私の小さな趣味だ。

あまり馴染みのない街で食事やお茶をする時、

私は、前もって一応、食べログ、RettyやSNSで調べてみる。

すると、どこであっても必ず

多くの人がオススメしていたり、やたらと高い評価のお店が存在する。

けれど、私は 正直、そういうお店には興味をそそられない。

最寄り駅から、その街へ行く目的の場所までにあるお店はある程度ブックマークしつつ

駅に降り立って、スマホのブックマークは見ずに数分歩いてみる。

その時食べたいもの、その時の気分、どんなお店がいいか。

なんとなく頭で考えながら、お店から漂う香りやお店の佇まい、看板などに惹き付けられて立ち止まる。

このお店にしよう。

そう決めて 席につく。

店員さんがとても気さくだったり、

店内の雰囲気、流れるBGMがとても心地よいと、それだけでも実は嬉しくなる。

運ばれてきた食事がとても美味しいと、ガッツポーズをしたいくらい、とても幸せな気持ちになる。

また来たくなるお店だな。

そんな風に思いながら、改めてスマホを確認すると、そのお店はブックマークに入れていない。

改めて検索すると そこまで評価は高くなかったり、話題にもあがっていなかったり。

けれど、実際 店内は私一人かというとそんなことはない。

むしろ少し遅かったら満席で座れなかったかもしれない状態なのだ。

こんな時、わたしはラッキーだと心から思う。

この街で働いていたり、住んでいたり、

この街の人たちにとっては日常的に利用するのに

検索では上位に上がらない 隠れた名店。

そんなお店にたどり着くなんて最高にラッキーだ、と。

もちろん、そうやって、なんとなく惹かれたお店が、実際、ネット上でも人気のお店なこともある。

そういう成功体験があると、余計に

初めからお店を決めて、目標を定め、人気店なら予約していくことを躊躇うのも正直なところ。

何故なら 期待外れだと がっかりさせられることも多々あるからだ。

【期待外れ】だとがっかりさせられるような出来事が起こりうる場面はこれだけに留まらない。

例えば、コロナ禍で昨年から更に需要が高まっているオンラインショッピングにおいてもあり得る話である。

常に利用していて定期的に購入するもの、購入するショッピングサイトであれば問題ない。

けれど、昨年、様々な日用品が一時的に不足し、
価格も高騰したり、ネットでもなかなか買えず
に困ったことは我が家でも度々経験した。

やっと見つけた!と思って、購入手続きも完了し、
あとはお店からの発送連絡を待つのみ、という段階で、
「在庫管理ミスで、商品が存在しないため、注文をキャンセルします」という意味不明の連絡。
改めてサイトを見ると、その商品ページは削除されており、お店のレビューには苦情の山。

空売り、だったのかもしれない。

我が家のように送料がかかっても
その商品を購入したケースだけでなく、送料を無料にするためにそのお店の他の商品を一緒に注文した人たちも多かった。

その、在庫がない商品 以外の 別の商品を売るためだったのか?と書いている人も沢山いた。

そういうことが一度あり、以降はかなり慎重にはなった。

けれど、とてもがっかりしたことが 長年利用していて、在庫管理もしっかりしている お気に入りのお店で起こるとは思っていなかった。

でも、こうしたネット上での買い物の場合、いずれの場合も確かにがっかりしたし
やりきれない思いになるけれど。

仕方ないね、と夫と話して終わり。

別に取り立てて問題ではない。

先に書いた食事の場合もそう。

「あちゃー、これはないわ」
と思ってしまうお店だったとしても。

それは仕方ないこと。

たまたま、合わなかっただけ。

そんなこともあると割りきれるから。

なのに、私の場合
こと人間関係においては
この割りきりができないでいた。

何度も相手に無意識に期待しすぎて
何度も相手に裏切られた、と
勝手に期待した自分自身を嘆いていた。

多分に私は【人が良すぎる】のかもしれない。
というよりも、心のどこかで、相手に嫌われることから逃げていたのかもしれない。

時間が経つと、改めて思うことがある。
それは、私が勝手に期待した相手は
期待に値するほどの価値はあったのか。


答えは 残念ながら往々にして No、だ。

これは夫にも昔から常々言われることなのだが
なんで、その程度の相手にそこまで期待したのか、と問われると恥ずかしながらよくわからない。

もしかしたら、
この人だけは裏切らないんじゃないか
もしかしたらこの人だけは 信じられるんじゃないか

そんな淡い期待を抱く私。

けれど、冷静に思い返すと
相手にとってこれ程迷惑なことはないだろう。

ある意味で【当たり屋】じみた、ばかげた期待。
そんなもの、相手にとっては迷惑甚だしいことなのではないだろうか。

自分自身で勝手に被害者意識になること自体
相手にとっては冤罪なのかもしれないのだから。

【がっかりした】
【失望した】
【裏切られた】
【悲しくなった】
【傷つけられた】

人間関係において 期待した結果、失敗とも言える体験からわき出た感情を引きずってしまうことは、とても容易いのかもしれない。
ずっと【自分は被害者だ】と思うことも、ある意味では自身を守ることにはなる。

けれど、その感情を持ち続けてしまうと
その感情に陥った状態から抜け出すことは容易でない。

そして、失敗する度に負の感情を蓄積させ続けて、
自分自身で辛くなってしまう。

負の感情の連鎖を、自分自身で作ってしまうのだ。

もちろん、これはケースバイケース。

相手に明らかな悪意がある場合は、全く別問題だけれど。

期待しない、もしくは期待し過ぎないことも大切なのかも、と改めて思う。

☆☆☆

今現在、あらゆる人間関係において

【期待しない】【期待し過ぎない】ことを実行していて改めて思うことは一つ。

なんであんなにも拘ってたんだろう。

これはあくまでも私の場合だけれど、

良い意味で期待しないことで、とても楽になれて

抱えてきたストレスは軽減されたからこそ

心からそう思うのだ。

なぜなら、そうすることで、相手にも余計な負担を与えないのだから。












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