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真夜中の信号機

夜中、眠れなくて散歩に出た。
特に眠れない理由はないはずなのだが。
こういう時はどうやったって眠れない。
ならばいっそ起きていようと、
夜の街へと散歩に繰り出した。

地元の田舎と違って、こっちは夜も明るくて。
でも人はいない。車も通らない。音もない。
電灯は道を照らすために立ち尽くし、信号は色を明滅させ黙々と仕事をしている。

今この時間だけ。
街は一部の機能を残して、
自分一人以外を排斥してしまったような感じだ。
或いは夜を完全に支配したかのような感じだ。

私はこの感じが大好きだ。
圧倒的征服感。
中世の、まだ王が絶大な権威を誇った時代の特権を、
現代を生きる我々が感じることができる数少ない瞬間である。

県道を一直線に歩いた。
車の気配は皆無だ。
広く空白の車道の脇の、狭い歩道を黙々と歩く。

信号機が黙々と仕事をしている。
この道には200m置きに信号機がある。
赤信号で私は足を止める。
タイミングが悪いのか、全ての信号機で赤信号に引っかかる。

別に待つのは嫌いではないが。
こうも連続で道を阻まれると少々気分が悪い。

私の他に誰もいない。
遥か先まで車の気配は全くない。
夜は静寂に支配されている。
いや、夜を支配しているのは私だったか。

赤信号を湛えて私に留まれと命令する信号機を見なかったことにして横断歩道を渡った。

するとどうだろう。
それ以降、赤信号に引っかかることはなくなった。
行く先の信号すべてが青で気持ちがいい。
今までから回っていた歯車が、急にかっちりかみ合ったみたいに。

このことは誰も見ていないし、誰も知らない、私が黙っていればこの世に存在しなかったことにできるとるに足りない出来事だった。

ただ、私は気持ちよかった。

己の不快が、誰もいない信号を破るという、誰にも何にも影響を与え得らない行為によって快感へと転位したのだ。これはなんだかおもしろい現象な気がする。



が、しかし。

今回は真夜中の信号機を破るという行為が「誰にも何にも影響を与え得らない行為」となっている点、つまり、真夜中の信号機の存在意義が気になったのでそっちに焦点を合わせたいと思う。

そう、真夜中の誰もいない信号とは最早何の意味もない明滅するオブジェクトと化しているのだ。

昼と同様に信号機は黙々と仕事をしていた。
車と人間の流れを整理し司るそれは、
日々、我々の命を守るそれはそれは大義な仕事なのだが、
今、この街には私以外の人間がいないので、
もはや何の意味もなしていないのだ。

私が支配した夜というこの空間においては、赤信号にも青信号にも何の意味もない。かに道楽の看板の動く腕くらい意味がない。
私が信号を破っても何も起きないし、
私が信号を守っても何も起きない。
私が信号を破るか、守るか。
ただそれだけの存在である。

なんて無意味な存在だろうか。
人命を守るためという大義名分のもと、全国各地に大金をつぎ込んで整備され、交通を司るという重大な責任を背負った国家権威。
しかし、私一人しかいないこの空間においては、ただの光る巨大な電球以上の意味はなさない。


真夜中の信号機は、
私という観測者に観測されることによって、
その権威を消失したのだ。

法治国家日本に、
私はささやかながらアナーキーをもたらした!

なんという快感だろうか。


。。。

この前の昼、誰もいない赤信号を待っていた。

誰もいないし、車もほとんど通っていない。
それなりに急いでいたのでえいやで飛び出す。
クラクションが飛んできて、私はあわてて引き返した。
車の乗り手に敵意一杯に睨まれた。

信号は守ろうな。



終わり。

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