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聴くということ〜委ねる、重なる、開き続けること

今朝のこと、Corneliusという名前を見かけて、急に聴きたくなったこの曲を聴いていた。

FANTASMA、1997年だそう。15か16歳の頃。
このアルバム持ってたな。しかもなんか分厚い特別版。
当時どうしてこれを買ったのかは覚えてないけど、精一杯背伸びをしたんじゃないかな?よくわからなくて一生懸命聴いてた記憶がある。

本当に久しぶりに聴きながら、ちょっと思い巡らしたことがある。


ここ半年くらいで、私の音楽の聴き方は随分変わったなーと感じている。
そして、その変化によって、音楽を聴くことはどんどん楽しくなってきている。

最近は、音楽を聴くとき、その音楽に委ねて漂う。
その中で、感じている私の中で起きていることに、美しい何かを探す。
そういう聴き方をしていると感じる。

以前は、その音楽の中に美しいものがあるかどうかを判断したいって思って聴いてたかもしれない。
その時、音楽と私は分かれている。音楽は対岸にある。
音楽は評価・判断する対象で、私は評価者。両者の間には溝がある。

今は、重なるとか、混ざるとか、溶け合うとか、そういう感覚。
その時の私と、私のいる世界と、その音楽が、うまくチューニングできて、交差したとき、私の中に生まれる反応があり、その反応や重なっている時間を味わうことが音楽を聴くことになってきている気がする。

そうすると、だんだん、わからないものが楽しめるようになってくる。

わからないと、判断はできない。
だから、わからないものには「これは違う」とレッテルを貼って拒絶する。
わかるものが、「かっこいい」とか「好き」とか、あるいは「今回はイマイチ」とかになっていく。

でも、わからなくても、とりあえずその音楽に委ねてみて、私の中でどんな反応が起こるかを試してみることはできる。
そうするとき、きっと私はなにか(たぶん手綱みたいなもの)を手放しているし、私の中の場所(おそらく無防備な場所)を開け放して音楽を迎え入れている。
その私の中の音楽と混ざっている場所で耳を澄まして何かを感じとること。
それは決してわかるようになることではない。
わからないものはわからないままで、それでも共にいて、何かを感じ、何かが生まれる。
わかることも結論もなく、ずっと開いている。
開いているのは関係性かな?まだよくわからない。
でも、開いているからずっと生き続けている。

そういう私の中でずっと生きて続けているものが、私を作り、生かしていく。
そして、また何かのきっかけで、私の中でなにかに反応する。
そういうことが、私にとってはすごく幸せで、生きるということそのものなのかもしれない。


そんなことを考えながら、「スターフルーツ、サーフライダー」と口ずさんだ朝でした。


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