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「見る」ことと「語る」こと

 絵画を鑑賞する時、我々は得てして言葉で語ることを軽視してしまう。絵は見るものであって、語るものではない。あるいは音楽でも、聴いたものを言葉で表現することは、どこか無粋である、というような感を抱くことも多い。しかし、見たり聴いたりしている時、本当にそれをよりよく理解するためには、言葉で語ることが必要なのではないか。


 学生時代に読んで考えさせられた本に、スーザン・ウッドフォード、高橋裕子訳『絵画の見方』(2005年)がある。絵画は見るだけではなく、絵について語ることでより深い理解ができるのだと、気づかせてくれる本だった。昨今では「絵画の見方」をタイトルに冠した本が盛況だが、スーザンの本はそうしたブームの走りとも言うべきものかもしれない。


 見るために技術が必要、などと言うと構えてしまうが、そんなに堅苦しいものではない。我々は物事を理解するために言葉を用いるが、絵や音楽についても同様であって、言語を絶する体験をしたとしても、それをあえて言葉にすることでより精緻にそうした境地を「理解」できることがある。美学や芸術というと抽象的で曖昧で、そうした曖昧でぼんやりしたものをぼんやりしたまま感じ取ることが「高尚」な体験であるとされるきらいもある。しかし、果たしてそうだろうか。


 何かに感動している時、なぜ感動しているのか、それを言葉で表現することでよりよく理解することができ、また、より深くその感動を味わうことができるのではないか。「美学」を学ぶ一つのスタンスはこれである。もちろん、学問としての美学は目前の主観的な感動を理解するためにあるのではないが、美学を学ぶことで、より精緻に主観的体験を分析することができるようになり、より深く非言語芸術を感じとることができるようになる。


 西洋近代美学の価値観の中では、「視覚」と「聴覚」に重きが置かれ、それ以外の五感と「美」が結び付けられることは稀であった、というのも、改めて考えてみると奇妙なことである。我々は「美味」というし、「美味しい」とも言う。美というものが本来的には哲学や神学の領域にある概念であり、造形芸術とはさほど深い関係になかったというのも、今となってはそのような感覚を理解することが難しい。美という概念、つまり言葉と、絵画の美しさ、音楽の美しさ、が結びついたのは、つい最近のことなのだ。そのくらい、言葉は我々の感覚を歴史的に規定している。


 あるいは、「作者」がいるということは自明なことではない、とか、芸術作品に「オリジナリティ」を要求する姿勢も歴史的に見れば自明なことではない、といった事実について考えていくと、我々は芸術作品を鑑賞する際にあまりに多くの認識のバイアスに捉えられていることがわかる。作者なんていなくともよい、といえば、AIによる自動生成作品などが想起されるし、ある種の「伝統芸能」を鑑賞する際には、オリジナリティの価値とは何だろうか、と考えさせられる。近代美学は、我々の認識様式の箍である。


 その認識の箍を外すために、言葉が必要なのだろう。ミシェル・フーコーは「エピステーメー」という概念を用いて、人間の認識の枠組みが歴史的に変遷してきたことを「知の考古学」の手法を用いて明らかにしたが、井奥陽子氏は本書において、美学で枢要な位置を占める「芸術」「芸術家」「美」「崇高」「ピクチャレスク」という概念の歴史的変遷を分析することで、芸術に対する近代的認識のバイアス、すなわち、近代美学のエピステーメーを明らかにしようとしている、と言える。


 概念を腑分けすることは芸術の理解に資する。本書の特徴は何より、その分析の明晰さかもしれない。複雑な迷路に入りがちな思想史上のエポックや西洋絵画史上の主だった出来事について手際よく整理する手腕は見事という他ない。往々にして抽象的な理解に付されがちな「美術」や「芸術」について、その概念の寄って来る来歴を解きほぐし、芸術についてより精緻な理解の拠り所を与えてくれるのが本書、『近代美学入門』である。芸術と芸術以外の垣根が曖昧になっている現代だからこそ、読む価値がある本であると思う。

 

 何が芸術で何が芸術でないか。その問い自体がすでに、近代美学の理解を前提としているということに、改めて気づくと、現代芸術のカオスな広がりと、「アート」と「社会」の接近についても、より俯瞰的な視点を持てるようになる。そういう意味で、非常に今日的な意味のある内容になっている。

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