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⑩【佐野登 先生】宝生流能楽師をもっと身近に。

「まだ見ぬ100年、200年先の誰かのために」

7月月浪能で「藤栄」のシテを勤める佐野登先生。「未来につながる伝統」というテーマを掲げ、伝統と革新を体現しながら活動を粛々と続けていらっしゃいます。能舞台で演じることはもちろんのこと、その活躍の場は教育現場や地方の小さな町の文化活動の場であったり、とにかく幅広いフィールドをお持ちです。
能を見たことがない、知らない人に向けて、能を今に伝え未来につなぐ、能の可能性を広げるアイディアやモチベーションの源泉とは?そのルーツをたどるべくお話をうかがいました。そして稽古場「芝礧荘舞台」も拝見し、登先生の師である伯父の故・佐野萌先生、祖父である故・佐野巌先生と当時の18代家元・英雄先生のエピソードも掲載しておりますのでぜひお読みください。

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ーー宝生能楽堂の上のマンションの一室に、このような舞台があるとは存じ上げませんでした。よろしければこちらの稽古場の由来を教えてください。
昭和25年に現在の三田(東京都港区)にある慶應義塾女子高等学校の横あたりに私の祖父の佐野巌が住まいを構えました。そのときに家の中に作られた稽古舞台がこの「芝礧荘(しらいそう)」です。なぜ「しらいそう」と名付けたのか、由来を語る文章が残っています。「芝」という字は「芝居」にも通じるし、カタカナの「サ」と「ノ」で「サノ」と読めたり、「礧」のいしへんは巌に通じ、つくりは「田」が三つで「三田」と読めたりと、そんなこじつけのような祖父ならではのこだわりが込められているそうです。

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▲祖父が書いた文章を伯父が舞台披き20周年の会の番組に載せたもの

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▲「芝礧荘」ができた当初の写真

祖父の死後、舞台を受け継いだ伯父である佐野萌は、舞台を宝生能楽堂があるこのマンションに移設しました。その後、伯父も他界し、しばらくしていとこからこの舞台を譲り受けることとなりました。その際に、それまで能を広げる活動をやってきたこともあり、ワークショップや講座などを気軽に開催できて、能を通じてさまざまな人が集まって交流できるような、そんな文化サロン的な場づくりをしたいと思い立ち大改造しました。いろいろと考えながら、できる限りスペースを有効活用できるように、作り付けの本棚を窓際に移して、レールをつけたミニ書庫にしてみたり、人が集まったときにちょっとしたおもてなしができるように台所をきちんとつくってカウンター式にしてみたり。レクチャーなどもできるように大きなテレビも入れました。長刀などが使えて稽古にも支障のないよう天井も目一杯に上げたりと、とにかくさまざまな工夫を凝らして、ここを使ってできることを全部やってやろうと思って(笑)
余談ですが、以前よりこの舞台の敷板は正倉院の内扉の改修用の檜材 と聞かされていました。半信半疑でしたが、改修のときに板を一度すべて外したんですが、その際に大工さんから「板の中の1枚にこんな裏書がありましたよ」と言われて。本当にそのように書いてあったんです。「あ、本当だったんだ」と正直驚きました。

正倉院の内扉の改修用の檜材

稽古舞台

ステンドグラス

▲母親の作品。
私がこの稽古場を継承し改築した時に、2枚のステンドグラスを作ってくれました。

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ちなみに私の同門会は「芝宝会(しほうかい)」といいます。この舞台の名前にも由来するのですが、「シホウ」は「至宝」にも通じ、お弟子さん、同門会は自分にとって宝の如く大切なもの。そして「サ、之、宝」で、「佐野だから」のオチです。私のこじつけというかこだわりです。


ーーお祖父様の佐野巌先生はどんな方だったのですか。
祖父は書くことが得意だったようで、日々思ったことを書き留めたメモや日記をはじめ、型付けはもちろんのこと、会報や本など、とにかく書き残してくれたものがたくさんあります。自分は書くことは苦手ですが、祖父の書いたものを読むのが好きで、読み解いていると、祖父の考えたことがなんとなくですが伝わってきて、それにすごく共感するんです。祖父は金沢から単身、東京に出てきて、とても苦労したと聞いています。そういえば昔、伯父に「じいちゃんは誰と仲がよかったのか?」とふと尋ねたことがあって。「そりゃ家元だな。」と言っていたことがありました。そのときの家元というのは、和英家元の曾祖父である17代宝生九郎重英家元です。

ーー巌先生と重英家元は仲良しだったんですね。
重英家元も、その当時、分家から出てきて家元になって、いろいろ苦労されてきました。私の祖父も分家から本家に入ったので通じるものがあったのか、二人は仲良くしていたようです。と言うよりも祖父は常に家元のことを大事に考えていました。関東大震災後、戦後の復興にも力を合わせてきました。特に関東大震災の時、内弟子にいた祖父の日記には、読んだ私も苦労と感謝を感じる場面が綴られていました。
筆が立ち達筆だった祖父は、当時の免状作成や雑誌「宝生」も創刊から わんや書店の編集になるまでの長い期間、すべての編集をしてきました。これも家元からの信頼があったからだと思います。
祖母から聞いた話では、よく一緒に飲みに行っていたそうです。祖父が先に酔うと、家元が家まで送ってきてくれたこともしばしばあったりしたそうです。祖父の葬儀もすべて家元が采配され、喪主に代わり挨拶もされたと伯父から聞きました。

ーー登先生は宝生英雄家元に主に師事されたとお聞きしています。なにか心に残る思い出はありますか。
私が内弟子に入りたての頃、当時の英雄家元から「おい。」と内弟子たちに声がかかり、一番下の自分が「はい。」と伺うと、「お前じゃだめだ。」と言われることがしばらく続きました。それがすごく嫌で。「なんでだよ。誰でもたいして変わらないだろ。」って思いましたね、その時は。とても若かった(笑)。あとから思うと、まだ入りたてで、どんな奴かもわからないのですから、何を頼めるかもわかるはずもなく、要はまだ信用されていなかったってことなんですけどね。

私は車好きなんです。見るのも運転するのも好きで、当時、車の運転なら誰にも負けない!という自負がありました。内弟子の仕事はいろいろですが、家元の送迎の運転手も大事な仕事の一つです。初めて英雄家元を羽田空港にお迎えに行ったとき内弟子たちがいつも使っていたルートが渋滞していたので、違う道にしたんです。そうしたら、「お前、なんでこっちいくんだ?」と叱られました。多少運転に自信もあり、自分なりの経験値で良かれと思い判断したことに対して「いつもと違う。」という理由でことごとく指摘され、叱られ、しまいには怒鳴られたんです。とにかくそのそきの自分は家元から全く信用がなかったんです。なので、次に運転するときには「どうやって行きますか。」と聞いて、「右行け。」とか「左行け。」と指示されて。しばらくして、いつも通り「どうやって行きますか。」と聞いたら、「お前の思う通りに行け。」と言われました。初めて判断を任された、やっと信頼を得たということです。
どこかに家元を迎えに行くときには、徹底して待ち合わせ時間ぴったりに迎えに行きました。あるとき、道路が渋滞してお迎えの時間に遅れてしまったときがあって。そのときに限って家元が外に立って待っていたんです。着いてすぐに謝ったら、家元が「いや、お前がいつも時間通りに来るから、何かあったかと思って。」と心配してくださいました。人の信頼とは、こういう小さな積み重ねで築いていくものだと思います。長く辛かった内弟子修行でしたが、得たものは大きいです。

今でも最長不倒記録の内弟子12年間という年月を経て、誰よりも英雄家元に信頼していただいたという自負はありますね。稽古も、私までは英雄家元がしてくれましたし、「結婚式もお前までは仲人をする。」とも言っていただきました。

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ーー登先生は能楽堂以外でも多様な活動をされていますが、その中でも、長野で「農業と能」をテーマにした取り組みをされていると伺いました。ぜひ、長野でのエピソードを教えてください。
長野の小布施町という小さな町があるんですが、そこには農家のお弟子さんたちがいます。私が20代前半の時から行くようになったので、かれこれ40年近い付き合いになりますね。小布施町はもともと祖父の代から通っているところです。いろいろありましたが、町の人が私を稽古に呼んでくださり通うようになりました。今では「おぶせ能」と称して年に1回、子どもたちをはじめ町民の方々と一緒に能公演をつくったり、通常の稽古だけでなく、町と一緒に活動をする場面をいただいています。
小布施町のある長野県の北信地方一帯は、謡が盛んな地域です。今でこそやる人はだいぶ少なくなってしまいましたが、「北信流」と呼ばれる「お肴謡」という昔からの地場の文化があります。お肴謡っていうのは宴席で、その日の功労者に感謝の気持ちを伝え表現する、中締めに行われる盃事の儀式のことで、盃を差し上げる際にそのお肴として小謡を差し上げるという北信地方に今でも伝わる風習です。この小布施町でも少し前まで宴会では盛んに行われていました。そのときに先輩が謡う姿のかっこよさに憧れたり、少しでも上手に謡いたい、というようなところがみんなあって、その日のために謡の稽古をしたり、いつでも謡えるように教養として身につけるというようなところがありました。そういった地域でも時代の変化とともにその伝統的な生活文化がだんだんと廃れているのが現状ですが、それを未来に継承していこうと取り組んでいるのが「お肴謡プロジェクト」です。その一環で「能×農プロジェクト」というものもやっています。町の基幹産業である農業の継承と小布施に残る能楽を源流とするお肴謡のコラボです。それぞれの継承を通じて思いやりの心を伝えます。具体的には、町のこどもたちの米作りを軸に田植え、稲刈り、感謝祭が実施され、その時々で一緒に作業をしたり、講話をしたり、もちろんお肴謡も実践します。

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なぜそんなプロジェクトに発展していったかというと、農家のお弟子さんには自分自身いろんなことを教わったことが根本にあります。土とともに自然を相手に生きている方々です。当たり前のことですが、都市部で生活していると忘れてしまっている自然に対する畏怖だとか、自然の摂理を教わりました。人が生きるとはどういうことか?自分にとっては人生を学ぶに等しいことでした。

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ーー登先生は教育現場でも活躍されていますが、どのような教え方を心がけていますか。そして伝えることはご自身にとってどんなことでしょうか?
自分が教わったこと、そのままですね。「見て、聞いて、真似する」っていう稽古の基本は、ものの学び方の基本であるということ。それを能というツールで教えています。

100年、200年、その先の未来のために伝える作業を今、一生懸命やっています。能を観る人、習う人が少なくなってきていますが、じゃあ、それならどうするのか?いつの時代もそのときに伝える困難は必ずあったと思います。でもそのときどきで一生懸命つなぐ人がいたからこそ、今に伝わっているわけで。だとしたら自分もその役割を与えられたなら、一所懸命、今の人に伝える作業をやっていくだけです。その先、能が残るのか?なくなるのか?そんなのはわかりませんが、伝えなければ、繋がなければ、確実になくなります。だとしたらやるしかないですよね。自分が選んだ道ですから。祖父も伯父も一生懸命つなげてきた道です。先人たちに感謝をしながらやるだけです。

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ーー今回の月浪能で勤められる「藤栄」はどんなお話ですか。
現在物といわれる、生きた人間の物話ですのでストーリーはわかりやすいと思います。月若(子方)は、父親が亡くなり相続するはずの領地を、叔父の藤栄(シテ)に横領されてしまいます。たまたまそこで出会った最明寺時頼(ワキ)はこの話を聞き、藤栄を懲らしめ遂には領地を取り戻し月若を助けます。水戸黄門のような展開の話です。舞台上では、最明寺が藤栄に舞を所望する為、曲舞、男舞、鞨鼓を舞う場面があり、芸尽くしの演目です。

いろいろな役を演じますが、その演技の根底には演じる役者の生きざまが現れます。
ですから自分が大事にしている生きざまを、舞台でもきちんと伝えるように心掛けています。

個人的には女性の役の方が演じやすいんですね。好きな女性像があるから(笑)。
女性の好きな男性って、私たち男性には一生分からない。反対に、男性が好きな女性は女性には一生分からない。だから私が女性の役を演じるときは自分が思う「きれいな女性」を演じるんです。

「『美しい女性です』って登場しても、それが美しく見えなければだめだろ。」と教えられてきました。美しく見せる事が大切だとずーっと言われてきました。たとえそれが物語の中で卑しい役だとしても。 

「離見の見」という世阿弥の言葉があります。いま外からどのように見えているのか客観的な目線を持つこと。いつもこの意識は忘れないようにしています。それは、舞台上だけではなく、普段の生き方でも。
『つなげるための「伝統と革新」』これが残りの人生の最大テーマです。

*佐野登先生は、
2021年12月19日(日)「未来につながる伝統―能公演―」 (宝生能楽堂)
にて能「安宅」を勤められます。
詳細は近日公開予定!こちらもぜひご覧ください。

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日時:4月9日(金)、インタビュー場所:宝生能楽堂稽古舞台、撮影場所:宝生能楽堂稽古舞台、芝礧荘舞台
7月月浪能に向けて。


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ご購入はこちら。

佐野登 Sano Noboru
シテ方宝生流能楽師
1960年、東京で生まれる。佐野萌の甥。18代宗家宝生英雄に師事。初舞台「忠信」トモ(1977年)。初シテ「忠信」(1984年)。「石橋」(1990年)、「道成寺」(1993年)、「乱」(1995年)、「翁」(2009年)、「隅田川」(2015年)、「望月」(2019)を披演。

稽古場情報やお問い合わせはこちら。
http://www.facebook.com/nougaku

登先生のお宝紹介
能型附(全曲)、囃子型付、仕舞型附、後見附、装束附、作り物図、能之大事。
文化14年(1817年)に15代宗家宝生弥五郎師家蔵本を筆写。

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一番ありがたいのは、書き残してくれている、ということですよね。別に俺のためじゃない。誰かのために書いておいてくれた。先人たちには感謝しなきゃいけないですよね。これには鍵が付いてて、いざというとき「持って逃げるもの」なんです。
(編集注:後見附…能において後見を担う際のことが書かれたもの。) 

・佐野家に伝わる「寶生大夫勧進能絵巻」

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絵を見ると、お客さんたち、みんな姿勢がいいですよね。この絵巻からはたくさんのことが学べます。いくつか複製があるみたいで、法政と早稲田、金沢県立美術館も持ってるらしいです。これはあるときに、うちの祖父が手に入れたわけですよ。とっても長いです(笑)。全部広げられないくらい。

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・帯 
祖母が祖父のために絽刺しで作った、とっておきの帯です。
祖母はとても手先が器用で、104歳で亡くなるまでずっと手芸は続けていました。
私は小学生時代、そんな祖母のことを「あみものの女王様」と題した作文を書き、コンクールで入賞しました。

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おまけ話【バイク】【クルマ】
高校生以来、2年程前に大型バイクを新たに買いました。
そして最近、とても怪しげなロシア製の軍用サイドカーに乗ったんです。戦時中にドイツ軍のバイクを分捕ってロシアで分解した作ったバイクがあって。あの非現実的な感じが良かった。

クルマはカッコよくて速いのが好きです。

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