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⑪【亀井保雄 先生】宝生流能楽師をもっと身近に。

「人は消えちゃうけど、言葉は残る。」

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9月の月浪能特別会で「野宮」のシテを勤められる亀井保雄先生。
今回は貴重なお写真をたくさん持ってきてくださいました。
最近はお孫さんが初舞台を勤められ、ご子息の雄二先生の初舞台当時のお写真と共に掲載させていただいております。
保雄先生にとっての「つなぐ」とは?

ーー保雄先生が「受け継いできたもの」は何ですか。
今日はアルバムの写真を持ってきました。NHKの20歳記念の特集がありまして、いろんな社会から呼ばれた人が集められたときに、たまたま私も呼ばれたんです。

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(NHKに出演された保雄先生)

特集の前に何か撮りましょうということになって、カメラマンが家に来て、写真を撮ってくれました。私は今より随分痩せています(笑)。

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(前列中央:お父様の俊雄先生、後列右:保雄先生)

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(自宅での稽古風景)

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最近、私は引っ越ししたばっかりでね、アルバムだとかというものはどこいったんだか分からなくなっちゃって。断捨離じゃないけども、うっかりすると処分しちゃったかもしれないね。自分のところにないもんだから、実家に近い弟の家に行ったら、弟もしばらくアルバムなどを出したりはしていないそうで、今回のインタビューのための写真を見つけるのが大変でした。

戦後の時代を生きている人間にとって「つなぐ」というのは、私は「人」だと思います。親父から子どもから孫へと。だいたいうちはうまい具合に兄弟が全員能楽の道に入っていたから、ある意味、中小企業みたいなものかもしれません。この能楽界で「亀井を知らなきゃもぐりだ。」というくらい亀井姓の人がいる。


ーーお父様はどのような方でしたか。
親父は戦後の能楽協会の復興を支えました。役所と交渉して日本能楽会というものを作り、
それから囃子科協議会という囃子方だけの協議会も作って。
うちの親父というのは自分のことよりも、まず周りの能楽師がなんとか食べていけるように動いた人でしたね。戦後の能楽界における縁の下の力持ちでした。

うちの親父は宝生クラブというところへまず入って、謡を勉強して、囃子方に人がいないということで、囃子方の方へ回されたそうです。
親父はたまたま囃子方として生きることになりましたが、私はシテ方へ。母親のお腹の中で鼓の音を聞いて、謡の声を聞いて育ちました。

※宝生クラブ…能楽師を養成するため、明治初期に宝生流独自で始めた活動。
※亀井俊雄=葛野流大鼓方。1968年に葛野流宗家預かりとなり、人間国宝に認定。

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(左:俊雄先生)

ーーお稽古はどのように始められましたか。
親父から謡を何番か習った後、私は家元のところへ直接通っていました。戦後、まだものがないような状況の中、私は本当に電車に乗れることが嬉しかったんです。

今のように、内弟子の寝食を面倒見るような住み込みではできないから、通いだったの。私は28歳くらいまでずっと内弟子の書生頭をしていました。
住み込みになったのは英雄先生が家元を継がれてからですね。九郎先生の代のときには戦前は住み込みだったんだけど、戦後はとにかく食糧難で通いになりました。
体育系みたいにね、「こうじゃない!」と怒鳴られて、蹴とばされてね。長刀持ってると「お前、それ鍬かついでるんじゃねえ!」とかさ。先輩方は皆内弟子にはそういう言い方だったんだよね。とにかく稽古をしなさい、ということだった。

今の子たちにはDVDやCDといった文明の利器がいっぱいありますけど、私らは体で覚えさせられた。それはあくまでも時代の流れで仕様がないんだけども。

私は三男坊だからどっちかというと呑気に生きてきちゃったからね。兄弟ががんばってるからまあいいんだけど。未だに私はこの道にいてよかったのかどうかっていう半信半疑みたいなところはあるね。「戻ってやりなおしたいな。」っていうのがほとんど。


ーーそうしますと100%舞台で良くできたっていうのはないということですか。
芸の道で100%って言ったら傲慢だよ。まして、この「道」と付くものは極めたなんていうことはないね。茶道にしたって華道にしたって。

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(亀井雄二先生の子方時代。
右下に写っている後姿は保雄先生)

ーーご子息の雄二先生の初舞台の写真をお持ちいただきましたが、その当時のことを教えてください。
息子の初舞台は「鞍馬天狗」の花見、稚児さんの役でした。4~5歳くらいのときだったかな。
私は地謡に出ていたかどうか覚えていませんが、このときの着付けは私がやっているんです。
息子はそれなりにまじめにやってたな。「鞍馬天狗」の花見は何人かがずらっと並ぶでしょ。子方になってすぐのころは、どうしても舞台が珍しくてきょろきょろしちゃうことが多いんですが、その中でも息子はまあまあ言われた通りに動かずに行って帰ってきてました。

息子が子方を卒業して、都立の高校に通っていたときに、「この能の道も選択肢の一つだ。」という言い方をしました。当人が選択するので、私はどうしてもここへ残れと強制はしませんでした。私自身も強制されなかったからね。結果としては、息子は自分で藝大を受けて能楽師としての道を志しました。

息子には謡など多少教えていたけども、みんなここ(宝生能楽堂)へ来て家元に教わってます。私も親父から謡を何番か習って、家元のところへ通うように言われました。
戦後、まだものがないような状況の中、私は本当に電車に乗れることが嬉しかったんです。最初は親父に連れられて来たけども、その後は一人で通いました。


ーーこの宝生能楽堂の周辺は昔と比べてどうですか。
全然変わっちゃったな。戦後すぐのころは焼け野原の跡でした。ここは松平の讃岐の金毘羅山のお殿様の下屋敷だから、松平さんが持っていた土地へ今の荏原製作所の創設者である畠山一清氏などがスポンサーとなって能楽堂を建ててくださったんです。
戦後、焼夷弾が落ちて、周りの建物だけが残ったところに、骨組みは残っていたので、そこへまた建て直したわけだね。まるっきりこういう建物になってからは、今年で42年になるわけだけども。

当時の能楽堂には稽古舞台はなくて、板敷で稽古しました。楽屋がずっとあって、楽屋の入口のところに楽屋番のご夫婦がいて。そのおじさんに「いたずらしないように。」と小言をもらいながら遊んでましたね。今は楽屋番はいないけど、現在の事務所みたいな役割だったね。

僕はいつも先輩と一緒にキャッチボールして遊んで、その合間に稽古。稽古が終わるとまた遊んだりして、うちへ帰ってました。
アメとムチだと思うよ。稽古だけしてもなかなか楽しみがない。

先輩に引っ張られて、また私らが後輩を引っ張っていって。そういうところが「つなぐ」っていうことなんだろうね。
だから、食べ物屋も飲み屋も受け継いでいる感じでね(笑)。だいたい先輩がご馳走するのが当たり前でした。

だけど、今は内弟子制度が固まっちゃって、住み込みで能楽堂の中に入るようになってからはほとんど飲み会はなくなったね。私らは通いだったから分からない、住み込みの書生の苦労はそれなりにまたあるんだろうけど、通いの方がどっちかというと大変は大変だね。やっぱり電車賃やら時間がかかる。早く来ないといけないし。

朝、先輩方が稽古する前に自分たちの稽古をしてもらうのが当たり前だったからね。先輩方は朝一番に私らがいないと機嫌が悪いんだよ。だから、楽屋番のおじさんに頼み込んで楽屋の片隅に寝っ転がって、寝泊りして朝一番に稽古してもらうこともあったね。そういう楽しみはあった。
今の人たちは朝の6時から稽古なんてしないよ。今の内弟子は楽なもんだ。ビデオやらDVDやCDや、そういうものがあるけど、私から見たらそれは無機質だな。
手とり足とり教わったものの方が、絶対に強く残っているはず。時代が変わっていっても、そういう部分が残っていってくれたらいいなと思う。「つながる」とはそういうことだと思うんだよね。

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(初舞台を勤められたお孫さんと
ご子息の亀井雄二先生)

ーーお孫さんが最近初舞台を勤められたとお伺いました。お孫さんとのエピソードを教えてください。
私は息子と孫とは一緒に住んでないもんだからね。さらに今このコロナ禍でもって、あまり孫のことは分からないね。とにかく初舞台をさせたということで、そこで私ともつながったかと思います。私は外出自粛していたので、直接観ることはできなかったんですが。

今は、だいたい家から出ることはありませんね。後期高齢者だからどうしても外へ出るのが億劫になるんだよね。舞台があるときくらいだね、外へ出るのは。今月だってほとんど何もないのにこれ(インタビュー)があったから(笑)。

うちに閉じこもってるからさ、5~6㎏太っちゃって。9月の「野宮」どうしようかと(笑)。本当に股関節がきちんと動くか心配です。もともと運動神経が良い方じゃないから、なかなか大変で。


ーー先生は俳句がお好きだと伺いましたが。
俳句はお袋がずっとね、昔からやってたんですよ。お袋に教わっていた、その影響が多少あって。今でも思いついたら句を出すんだけども。
17文字の中に凝縮させるっていうのはね、本当に推敲が大変。簡単に出たつもりでもね、「いやいやいや。」と思いながらまた手直ししたり。一文字違うだけで全然感じが変わっちゃうから。俳句も謡も、生涯どうしても終わることはないね。

高浜虚子という戦前の俳句の先生が、松山の出身で、ワキ方の宝生新先生に謡を習っていたそうです。戦前には、シテ方宝生流の近藤乾三先生や野口兼資先生や髙橋進先生といった、みなさんと交流があって、「句謡会」という宝生流の俳句の会がありました。俳句はあちらが教えて謡は能楽師が教えるという、そういう交換をしていましたね。
それでとうとう俳人になられた方が松本たかし。もともとは宝生流能楽師の松本長という大名人のご長男だったんですが、結局、肺結核になってしまったので、鎌倉に移ったときに高浜虚子に本格的に師事して、俳人として活躍しました。その弟にあたる方が故・松本恵雄先生。今井泰男先生や三川泉先生のちょっと年上になります。

人は消えちゃうけど、言葉は残る。昔の古今だの新古今だのという歌集の中に「詠み人知らず」って何首かありますが、どれも良い歌なんですよね。


ーー今回の月浪能についてお客様にメッセージをお願いします。
日本語の、和歌の七五調の美しさを味わってみてください。
あとはお客さんに想像力を働いていただいて、退屈だったら「退屈だった。」でいいんだし、「眠かった。」でもいい。「つまらなかった。」でもいい。それぞれが感じたものを持って帰っていただければと思います。

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日時:8月18日(水)、インタビュー場所:稽古舞台、撮影場所:稽古舞台、9月月浪能特別会に向けて。


9月月浪能特別会能Life

9月月浪能特別公演番組


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亀井保雄 Kamei Yasuo
宝生流シテ方能楽師
亀井俊雄(大鼓方葛野流)の三男。1950年入門。17代宗家宝生九郎、18代宗家宝生英雄に師事。初舞台「鞍馬天狗」花見(1950年)。初シテ「禅師曽我」(1964年)。「石橋」(1980年)、
「道成寺」(1974年)、「乱」(1976年)を披演。
2016年、春の勲章「旭日双光章」受賞。

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おまけ話
保雄先生は帽子を季節によって使い分けていらっしゃるそうで、今日もとってもおしゃれでした。羽織はお父様から受け継いだもの。

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