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⑤【朝倉俊樹 先生】宝生流能楽師をもっと身近に。

能楽師の先生方が先輩や親から受け継いだ大切な「もの」を紹介していきます。

朝倉俊樹先生は、今まではツレ(同山)としては何度も出演されていた「安宅」に、4月の月浪能特別会で初めてシテとして舞台に臨まれます。江戸時代に旗本から能楽師に転向された曽祖父様、その後、能の道を受け継いだお祖父様やお父様、ご子息(朝倉大輔先生)とのエピソードなど、家族の「つながり」をたくさんお聞きすることができました。

また、今回は特別企画として、俊樹先生に宝生能楽堂の本舞台の松や揚幕の解説をしていただきました。

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ーー俊樹先生が「受け継いだもの」は何ですか?
父の朝倉粂太郎から譲り受けた舞扇(青地本金五雲青海波模様)です。父のもう一つ上の世代の方たちと限定で作ったと聞いています。同じ扇をお持ちの先生方が多いんです。舞を舞うときにこの扇を先生方が使用されると重なってしまうので、私が使える機会はなかなかないんですよ(笑)。

もう一つは、父が平成元年に建てた自宅舞台の鏡板の松をそのまま扇の図柄にして、舞台披きの配り扇にしたものです。この鏡板の絵は、宝生能楽堂の稽古舞台の松を描いた方に描いて頂いたんです。鈴木慶雲さんという彫刻家で、流儀の能面打ちもされていた方です。

自宅舞台の移転計画があり、この鏡板も移そうとしたのですが、建築当時に移築を考えておりませんでしたので、板がどうしてもはがせず、断念しました。ですから、その時の鏡板は残っておりません。今はこの扇から父の稽古舞台の松を思い出しています。

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ーー扇をケースに入れて持ち運びをされているんですね。
これはわんや書店さんで売っている舞扇用のケースなんです。仕舞のときに扇を2本使う曲もあるので、2本入れられるケースはとても便利です。実はこのケースも父から引き継いだものなんです。家には他にも色々あったのですが、このケースが一番使い勝手が良いので愛用しています。他の流儀の方たちはこのようなケースをお持ちでないらしいんですよ。一度、観世流の能楽師さんと一緒に舞う機会がありまして、そのときにこのケースを持って行きましたら、「俊樹さん、このケース良いですね!今度買いに行こうかな。」って言われたので、「宝生流の扇の寸法だから観世流の扇は入らないよ。」って伝えました。観世流の扇は一回り大きいんですよ。

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ーーお父様とのエピソードを教えてください。
父は若い頃に病気をして、左足を膝上から切断してしまったので、私は父と共演したことがないんです。父が地謡で私がシテで、という事はありましたけど。

父は背が低い人だったので、袴も使えないし、私は父のものはなにも使えなくて。結局、残っているのはこの扇くらいでした。父からは「お前はお前の寸法で紋付や袴を作れ。」と言われまして、私は私専用のものを作りました。私のものを倅の大輔に引き継がせようかと思っていたのですが、息子は身長が私よりも高いので結局使えないんです(笑)。なので、この扇をそのまま譲ろうと思っています。

私は能楽師としては4代目でして、初代の曾祖父は江戸時代の旗本でした。能楽師の方が旗本屋敷に来て、謡の稽古をつけてくださっていたらしいんです。明治維新になって、旗本の殿様は仕事が無くなって困っていた時に、稽古を付けて下さっていた能楽師の先生から「朝倉の殿様はそろばんが打てるから木戸番(注:興行場の木戸口を守り、客を引く番人のこと)をしてくれるようにお願いして、地謡の人数がいないときには地謡に出てもらおうか。」という話になり、能楽師としての生活が始まったと父が話しておりました。

私の祖父は、すぐ上の兄と2人だけで謡の稽古を受けていたようです。祖父は曾祖父に連れられて地謡方の専門役者になりました。昔は地謡なら地謡方、ツレはツレ専門、シテが勤まるのは太夫だけと決まっていたので、祖父は地謡専門だったと聞いています。祖父は宝生重英家元から「お前の所の倅には、この道をやらせるのかやらせないのか。」と言われたそうです。「それじゃあ。」ということになって父を宝生宗家に入門させた様です。父も仕方なく入ったみたいです。

たまたま父は病気で舞台に立てなくなりましたので、自分のできなかったことを私に託した部分があるように思います。私が子方をやっていた小学4年生の頃、子方を勤めて帰ってきたときに、「よし、今日は良くできた。」と言ってくれて、「はい、今日の。」と茶封筒をくれたんです。子どもは何が入っているか知らないでしょ。薄謝と書いてありましたけど、子どもなので字も読めず。「お前、今日舞台を勤めたろ。それのご褒美だ。」って言われて。とっても大きな封筒に100円玉が3つ入ってました。今だと「それっぽっちですか?」という感覚ですけど、当時、小学生の一月のお小遣いが100円だった頃ですから、1回舞台を勤めただけでこんなに貰えるんだ、という感じでしたね。初めて貰ったので嬉しかったです。「その代わり、うちからの小遣いはないからな。大事に使え。」と言われたのを覚えています。これは給料だったんだと後で気づきました。「こんなに小遣いもらえるんだったら、これは続けるべきかな。」って思っちゃったのが失敗だったかもしれませんね(笑)。

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ーーお父様からどのようなアドバイスをいただきましたか?
父がしょっちゅう私に言っていたのが、「きちっとした謡を謡えるようになれ」でした。装束を着ける、舞を舞う、お弟子に教えるとかいろいろ仕事はありますが、「うちの流儀は謡の流儀だから謡を覚えろ。」と。

アマチュアの同好の方に教えるときも「手を抜くんじゃないぞ。力いっぱい謡え。」と言われていました。私が初めてお弟子を取って教えるようになったのが宝生会の謡曲仕舞教室だったんですけど、そのときに父から言われたことを守って、手を抜かないで教えてたんです。そうしたら、何も知らないアマチュアの人たちはついて来られなくて(笑)。そういう所から勉強が始まるんですね。力入れて謡うんだけど、かみ砕いて、初心者にも分かりやすく。段々出来る様になってきたかなと思っています。

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ーー俊樹先生のご子息である大輔先生とのお話もお伺いしたいです。
私が父と共演したことがなかったので、ぜひとも一緒に演じたいというのはありました。息子が4歳のころ、彼がまだ全然意識のないときに、舞台に出しちゃった。息子に装束を着せてやって、「しっかりやってこい!」と。

息子の初舞台は五雲会でした。最後に「鞍馬天狗」がありまして、花見児が彼にとっての初舞台でした。その時、ちょうど私が「藤」シテを勤めました。「鞍馬天狗」は息子と同じタイミングで入門した人の父親がシテで、その息子さんも一緒に出そうという話になって、出したのが初めでしたね。親が2人とも舞台に出ていましたので、気が気じゃなかったです。「鞍馬天狗」のシテだった金井雄資師は子供たちの事が気になって仕方なかったと言ってました。私はシテを勤め終えた後だったので、「ちゃんとやれよー!」という感じで見ていましたね。大輔が4年生のときには「給料だ。」と言って、父がしてくれたように私もご褒美を渡しました(笑)。

その後ずっと息子の稽古をしてきて、子方が終わった高校生の頃、「やるなら教えてやる。いやなら、辞めちゃっていい。」と伝えました。彼が藝大を受けると言ったときも、宗家の内弟子に入るときも「お前さん次第だよ。」と。ある程度突き放して、勝手にさせてみました。結果的に息子が受け継いでくれていますから、良かったと思っています。

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ーー「安宅」をお稽古されてみていかがですか?
武蔵坊弁慶がシテの役ですけど、みなさんがお持ちになっている弁慶のイメージって、いかつい人で、機転が利いて、かっこいいイメージでしょ。私は身体がとても大きいわけではないので、いかにも強く大きく見せるということを心がけないといけないな、というのはありますね。実は私、今回「安宅」は初演ですけど、ツレの方は20回くらいやっているんですよ。「安宅」のツレのことを同山(どうやま)っていうんです。例えばお遍路さんなんかでも、「同行二人」とかって笠に書いてあったり、着物に書いてあったりするでしょ。同行山伏なので同山っていうんです。それをたくさんやっているので、シテの謡も入っているかなと思ってはいたんですけど、なかなかやってみると大変で。
本当に休んでいる暇がないんです。義経をさんざんに懲らしめて関所を通り抜けるという所までは立て続けに場面が展開していくので、考えている余裕がないです。次から次へとね。
「安宅」の謡本の半分以上をシテが謡っているような感じです。わりと謡文句が紛らわしいんですね。同じようなことを何回も言うし。場面展開の部分で、自分たちが止められているときと、義経が止められているときと、そのやり取りの所でも、どっちがどっちだっけってなります。

ツレを勤めていた時は、関所破りの方がメインなんですよね。ツレは力ずくで関所破りして行っちゃうという感覚の人たちが多いので。
今回だけ通れても、次で捕まっちゃうかもしれないから、どうしようか、と弁慶は一生懸命考えて、義経を召使にするんですよ。そこまで機転を利かせてやっていく、その冷静さで、血気盛んに関所を破ろうとするツレを抑えつつ、ここで首を切られるだろうという所まで追いつめられながらも窮地を脱していく。そういう気合というものが出てこないとだめなんでしょうね。流れが一気に来るので、本当に体力勝負ですよ。どこまで力が持つかなっていう。

あとは、稽古で慣れていくという事ですね。私はどっちかというと頻繁に稽古しないと自信が持てないので、一生懸命沢山稽古して、息切れしないようにします。。


ーーお客様へメッセージをお願いします。
このコロナ禍の中でも能楽師は一生懸命に稽古をして、皆様に良い舞台をお見せしようと努力していますので、皆様もコロナに負けずお出掛け頂いて、最後まで存分に御覧になって下さると良いなと思っています。

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特別企画「俊樹先生と能楽堂ツアー」

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今の宝生能楽堂本舞台の鏡板の松は先々代の宝生英雄宗家が「七五三」になるように描いて下さいとお願いされたと聞いています。松葉の塊が正面は 7つ、左が3つ、右が5つになる配置になっています。鏡板との松には神様が宿るということもあり、七五三で縁起が良い、とお考えだったようです。

この鏡板の松には、必ず真ん中の幹の左に穴が空いているんですよ。狸の穴。必ず空けるらしいんですよ。狸が隠れているんですかね(笑)。

舞台によって松の絵って全部違うんですね。同じ松ってないんです。それぞれの舞台に行って、鏡板の松を鑑賞するっていうのも一つの楽しみ方かもしれないですね。松の横にお日様が描かれている舞台もありますし、戸隠山にある能舞台は松ではなくて紅葉らしいですよ。能舞台右側側面には必ず竹の絵が描かれています。横浜能楽堂の舞台、これは昔、染井能楽堂という駒込にあった舞台らしいんですけど、そこの鏡板には松と梅が描かれているんです。ので、松竹梅になるんですね。

宝生能楽堂だけ揚幕が違うのも特徴です。本来、揚幕の色は「地水火風空」=宇宙を表しているんですね。幕が上がった向こうからは謎の人物が登場する、宇宙から誰かが来るんだそうです。本来の「地水火風空」には白が入るんですね。宝生能楽堂は白は入っていないんですよ。それは殿様に遠慮しているとかっていう謂れもあるらしいんですが。宝生能楽堂は真ん中が赤。面をかけて舞台から鏡の間に帰って行くときに、赤い筋を目印にするといいんだよって言われました。


日時:3月16日(火)、インタビュー場所:稽古舞台、撮影場所:稽古舞台、4月月浪能特別会に向けて。

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2021年4月月浪能番組表

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朝倉俊樹  Toshiki Asakura
シテ方宝生流能楽師
1958年、東京で生まれる。朝倉粂太郎(シテ方宝生流)の長男。1964年入門。18代宗家宝生英雄に師事。初舞台「鞍馬天狗」花見(1985年)。初シテ「経政」(1978)。「石橋」(1989年)、「道成寺」(1986年)、「乱」(1992年)、「翁」(2003年)を披演。

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