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【短編小説】『アクネ』



あれはいくつの時だったでしょうか? 十歳くらいだったような気がします。まだ匂いのしない子どもだったことだけは、はっきりと覚えているのですけど。学校の帰り道、通学路の脇で段ボールに入れられて捨てられていた一匹の仔猫を拾いました。薄汚れているとはいえ、白猫なのに口周りだけまだらなブチがついている仔猫でした。


幼心にでさえ、恐らくこの仔だけ捨てられてしまったのだろうと、うっすら分かってしまい、後先考えずに抱き上げて連れて帰りました。仔猫はオス猫でした。そして随分私の手を引っ掻きました。小刻みに震えていて、ガリガリに痩せた体は触ると背骨の形が分かるくらいだからお腹も空いていたはずなのに、それでも、私の手を頼りたくはなかったようなのです。連れて帰るとそんなに優しくはない義父に叱られるかと思ったのですが、それまで知らなかったのですが、意外なことに義父は動物が好きなようでした。

どんな悪人にも一つくらいは良いところがあるのかもしれませんね。義父においてはどうやら動物に対する気持ちのようでした。私が薄汚れた仔猫を洗うのを義父はあれこれ口を出しながら手伝ってくれました。それは私にとってはとても異質な事だったので鮮明に覚えています。

狭い洗面台にお湯を張り、その中に仔猫を入れると、仔猫はみいみい鳴いて、暴れて抗議しました。仔猫どころか、動物を洗ったことなど一度もない私は、おっかなびっくりでひっかき傷だらけになる手の痛みも忘れて、懸命に洗いました。

乾かす頃になると、仔猫はようやくあきらめたように大人しくなりました。濡れた毛が乾くと、思っていたよりもずっと白くて驚きました。そしてそのふかふかした白い綿毛の様な柔らかな毛の間に何かがもぞもぞと蠢くのを見つけました。

私が仔猫の毛をかき分けていると、義父がこう言いました。

「ノミがいるんだな。ちょっとかせ」

義父は私から仔猫を奪うと、毛をかき分けながら、両手の親指の爪で上手にノミを追い詰めてその爪の裏で潰しました。

私にもやって見るように言われたので、しぶしぶ、義父の真似をしてノミを爪で潰しました。

プツリ。

耳には聞こえない音が小気味よく、私の指先に響きました。

命のぜる音。

それに私は一瞬で夢中になりました。顔に何か白い物が飛んでくるのもお構いなしに潰し続けました。

ユタカさん。貴方と一緒にいるとそれに似た感覚が度々押し寄せて来てたまらなくなるのだと言ったら、私はまた貴方に薄暗い女だと言われてしまうのでしょうか?

◆◆◆◆◆◆

ユタカさんはある日突然私のアパートの部屋の前に立っていました。

その突然さはあの仔猫と変わらないくらいです。ただユタカさんにはあの仔猫のような見すぼらしさは微塵もありませんでした。一目見ただけで仕立てのいいものを身につけていることが分かりました。

薄汚れたクリーム色の、日当たりの悪い私のアパートの一室の前にユタカさんのような人が立っているのはあまりにも異様で、幽霊ではないかと思った私は足元を見ました。足はありました。あんなにつやつや光る革靴をそれまで見たことがありませんでした。

そう言えばユタカさんの足音はすぐに分かります。なんの躊躇いもない規則正しい音だから。見知らぬ男の人だと思いましたがユタカさんは私がいつも水曜日にエントランスの床を磨きに行く会社の専務さんでした。

創業は江戸時代にまで遡ることのできるお菓子メーカーの本社です。創業者一族が経営していると聞いたことがありました。専務さんも社長さんの息子ということでしたからいずれは社長さんになるのでしょう。私とは別世界にお住いの人。何故そのような人がこんな所に来ているのかは、ユタカさんの目を見るとなんとなくわかりました。

私を見据えた目に浮かぶ何かに、ああ、私は見つかってしまったのだと、正体のほとんどわからない理由で、ユタカさんを部屋の中に入れてしまいました。

良く考えれば、と言っても私は頭があまりよくはないものですから、考えると言うことは向いてないのですけれど、狭いキッチンの小さなコンロの上の、笛付きのやかんのお湯が湧くのを待つ間もなくユタカさんが私の足首にヌッと手を伸ばして引き倒した時に妙に安堵してしまった私はユタカさんの言う通り、おかしな女なのだと思います。

笛付きのやかんは甲高い音をを立てる事はありませんでした。ガスコンロはユタカさんが切ってしまったから。ぬかりのないことです。

キッチンの床に寝そべり、天井の模様を眺めている私にユタカさんは覆いかぶさりました。

ろくに服も脱がず脱がされず、糸が引きちぎれるような音を時々聞きながら、身体のあちこちを床にぶつけました。こんな風にずいぶん慌ただしく、性急にユタカさんは私の身体を貪りました。

思えばこの日だったのでしょうね。ユタカさんが、あの方から酷い仕打ちを受けたのは。

「処女だと思ってたのに」

ユタカさんは私の身体から抜け出すとそんな風に言いました。

ユタカさんの言う事は私の頭の中まで浸透するのに、かなり時間がかかるので、身体を引き倒されるまでに言われたあれこれは、かなり後になってから、ようやく覚書おぼえがきになると言う感じでしたが、この言葉だけは、随分と質素ないでたちだったので、すんなりと頭に入りました。

そして、笑わないようにするのが大変でした。

今思い返してみても頭のいいユタカさんに分からないのが、不思議です。薄暗い女には、薄暗い女であるが故の需要があるものなのです。私の、身体に最初にのしかかったのは、私にノミの潰し方を教えた男です。

「薄暗い女が無傷でいるのは中々難しいことなのですよ」

そんな言葉が喉元まで出かかりましたけど、私は気を取り直して薄く笑みをうかべました。そして今となってはそんなことをユタカさんには言うつもりはありません。また薄暗い女だと言われてしまうだけですもの。荒い呼吸がおさまってから、ユタカさんは何故だかシャツを脱ぎ始めました。

することの順序がおかしいと思いましたが、シャツを脱ぎ捨てたユタカさんは背中を掻き毟り始めたので、わたしは思わずその背中を見てしまったのです。


ユタカさんの背中にはおびただしすぎて数える事ができないほど沢山のニキビがありました。赤く膿んでいるものや、ほくろのように黒くなったもの。白く、はち切れんばかりに膨らんだもの。ユタカさんの背中はそんなもので埋め尽くされていました。汗をかくと、それがとても痒いのだと、ユタカさんは後から教えてくれました。


ニキビと言いますと、顔に出来る物だとばかり思っていましたけれど、ユタカさんの顔には一つも見当たりません。にもかかわらず背中一面に広がっているのです。なんとも不思議な気持ちで、じいっと背中を眺めていると、ユタカさんは言いました。

「潰してくれないか?」

潰す?

私は恐る恐るユタカさんの背中に指先で触れると、子どもの頃ノミを潰したやり方で、ユタカさんの背中にはびこるものを潰してみました。親指の爪と爪を合わせてノミを追い詰めるようにニキビの芯をとらえるのです。

プツリ。

あの音とは少し違いましたが、それでも良く似た音が私の指先に甘く広がりました。

それから、私は夢中で潰し続けました。ぬうっと毛穴からそのままの形ででてくる米粒のような黄色い皮脂。にゅるりにゅるりと螺旋をえがきながら糸状にでてくる生成色の皮脂。膿と一緒に飛び出してくるくの字の形をした皮脂。ウォッシュチーズのような悪臭を放つ皮脂。バリエーションの豊富さがノミを潰している時よりもずっと私を楽しくさせました。

一時間もそうしていたでしょうか? ユタカさんは何も言わずに衣服を整えて、帰ってしまいました。私に残されたのはユタカさんの背中から取れた大量の皮脂のこびりついたティッシュペーパーでした。そういえばノミの死骸もこうしてティッシュペーパーに並べてみたものだなあと思いました。

慌ただしく交わったりもしたはずでしたのに、数時間もするうちに、ユタカさんが私の部屋を訪れたことが現実から解離していくような気が致しました。ありえない方の訪問と、どこか懐かしい出来事が重なったせいでしょう。明け方にみる夢のように生々しいけれど現実味のないことに思えたのです。けれども、それからユタカさんは毎週水曜日に、私の部屋に訪れるようになりました。

◆◆◆◆◆

ユタカさんが私の部屋にくることがすっかり当たり前になった頃から、ユタカさんは色んな話をポツリポツリとするようになり、気づけば饒舌にお話ししてくださるようになりました。どうやらユタカさんは随分ご自分の思い通りにならないことが沢山おありのようで、子どものように私に色々教えてくださるのです。

「俺の秘書はほんと使えない。大事な事を俺に言わない」

「オヤジはもっと俺に仕事を任せるべきだ」

「妾の子のくせに弟がうちの会社に入ってきた」

「でもオヤジは絶対俺に会社を継がせるはずだから」

私はいつも大げさにでも無反応でもなくその話に頷きますけれど、正直あまりよくわからない難しいこともありますし、そもそもあまりユタカさんの日常には興味がありません。分かりかねますから。ただ、思い通りにならない子どものような焦燥を話の節々に見つけてしまいます。そんなお話を聞きながら、私の思うことといったら、ただ一つです。

早く、ユタカさんが背中を掻き毟りはじめないかしら?

そうすれば私は心置きなく指先にあの音を纏う事ができるのです。プツリ。という音がする時、ユタカさんも居心地がよさそうです。

それにしても、一体どういうことでしょうね?

もう私は一年近くもこうして潰しているのに、ちっともニキビは減りません。むしろ増えているような気がするのは、気のせいでしょうか?

どこから、どのようにこうして背中の毛穴に脂が集まってくるのかとても不思議です。まるで、もうユタカさんの毛穴一つ一つが意思を持ち、脂で詰まっていないといけないという義務感に駆られているのではないかと思わずにはいられないくらいでした。

ユタカさんがおっしゃるには、ありとあらゆる評判の皮膚科を訪れたり、漢方薬を飲んでみたり、光やレーザーを当ててみたりしたそうなのですが、何一つ効果的に思えたものは無かったそうです。

◆◆◆◆

私が爪に甘い音を響かせて、半年もしないうちに、ユタカさんは奇妙なことを言い始めるようになりました。

「マンション買ってやるからそこに住まないか?」

「欲しい物は何でも買ってやるから言え」

今もユタカさんはたまに思い出したかのようにこんなことを言う時もありますが、私はゆっくりと左右に首を振るばかりです。

ユタカさんは分かっていないのです。

私にとってのユタカさんがいったいどういう存在なのかを。けれども、自分で申し出されたにもかかわらず首を左右に私が振る度にユタカさんが、妙に嬉しそうに見えるのは気のせいばかりではなさそうです。ユタカさんが嬉しそうな事なんてほとんどありませんから、細やかな違いを私は見逃せないのです。

ユタカさんの色んな申し出は断りましたが、それでも、ユタカさんがたまに買って来てくださる、口に入れると果汁がほとばしる果物たちは断る理由が特に見つかりませんので頂いてしまうのですが。

◆◆◆

私がユタカさんのニキビを潰すようになってから一年がたちました。私たちは二人でどこかに出かけるようなことはありませんから、私にとってユタカさんとの関係はこの部屋で起きていることが全てです。ユタカさんにとってもそれは同じことで、私に知らないことが沢山あるのも当然のことです。ユタカさんにご婚約者さまがいらっしゃるのを知ったのは、つい一週間程前のことでした。

私のアパートの目の前に再びとても似つかわしくないものが停まっていました。ユタカさんが初めて私のアパートの前に立っていたのと同じくらいの違和感がありました。

黒塗りのやけにピカピカ光る大きな車で、車の先端に美しい天使が鎮座していました。あまりの眩しさに私は目を細めました。こんな車に用事がありそうなのは、ユタカさんしかいないように思いましたが、その日は水曜日ではありませんでしたから、ユタカさんが私のアパートに来るはずはないのです。

私が訝しく思っていますと、後部座席から、とても不機嫌そうな、けれど若くて美しい女性が下りてこられました。ノースリーブのワンピースを着ている二の腕はほっそりとしていて、とてもなめらかそうでした。

白魚のような指は綺麗に爪が整えられていて、心なしか内側から光っているようにみえました。掃除などすることのない手。雑巾などしぼったことのない手だと思いました。

「あんたがユタカの女? いくつ? おばさんじゃない。まあ、どうでもいいんだけど、言わせて貰いたいことが一つだけあるの。あんたの部屋どこ?」

温室で大事に育てられたあでやかで上品な出で立ちとは裏腹な、とても無造作な物言いに驚いてしまいましたが、恐らくこの方はどなたの機嫌を伺うことも必要のない方なのだろうなと思いました。どちらかと言いますとユタカさんもそうですね。私が自分の部屋に案内致しますと、かろうじて靴は脱いでいただけました。

「何なのここ。うちのトイレより狭いじゃない」

私は薄く微笑みました。

そして、ユタカさんのご婚約者さまがお話になる事をちょうどユタカさんのお話を聞く時と同じようにただただ聞いていました。

ユタカさんと一年前に婚約されたということ。

ユタカさんとはいわゆる政略結婚だということ。

ユタカさんに愛情など一欠片もないということ。

「あなた、よく、あんな男と寝られるわね?」

「え?」

「あいつの背中、気持ち悪いじゃない」

ああ。ユタカさんはこの方に本当は愛されたかったのではないのかと、この時にユタカさんが最初に私の所に訪れた日が符合しました。

「私が言いたいのは、間違っても子どもだけは作るなってこと。絶対認知なんてさせないんだから。まあブライダルチェックであいつの精子は引っかかってるから無理だと思うけど。もし、あなたに子どもができてもユタカの子じゃないことはユタカが一番よく知ってることになるから、よく考えることね」

そしてご婚約者さまは顕微受精で自分がユタカさんの子どもを産むのだと締めくくり、憎々しげに私を一瞥してお帰りになりました。

産まれながらに欲張りでいることを許されている方の心境はやはりよくわかりませんけど。欲張りでいることを許されているのに、どこか幸福ではなさそうなのは何故でしょうね。

ユタカさんの子ども……。

ユタカさんはあの方と顕微鏡の中で結ばれるのかしら?

それを考えますと、その滑稽さに、一人で声を上げて笑ってしまいました。そして、あれから、また水曜日になりました。ユタカさんは今日も私の部屋に訪れました。見たこともない程、粒の大きな立派な葡萄ぶどうを携えて。

一緒に食べたことなどないのですが、ユタカさんが帰ってから一人きりになった時の細やかな楽しみです。そういえばあの時の仔猫も大きくなると、ネズミやバッタ、ときにはモグラなんかを私にとって来てくれたものでした。

口に入れても差し支えないだけ、ユタカさんの方がましでしょうかね。

ご婚約者さまの言い分によりますと、ユタカさんは来週結婚されるそうなのですが、そんなことは微塵も言葉にせずに、いつものように、腹違いの弟さんの陰口などをポツリポツリとお話になられています。ここに来たことをご婚約者さまはユタカさんには言っていないのでしょう。

私はご婚約者が乗っていた車のことが妙に気になりまして、調べてみましたところ、私が天使だと思った車の先端に鎮座していた物は「スピリット・オブ・エクスタシー」と言う呼び名がついているそうなのです。

「歓喜の精霊」

あのご婚約者さまにその御加護ごかごが少しでもあれば幸いに思います。

「潰してくれないか?」

今日もユタカさんは背中をかきむしりながら私にそう言います。

こうやって私に何をして欲しいか言えるのはあの仔猫と違って便利なものだと思います。そう。私にとってユタカさんはあの時の仔猫と似たようなものなのです。そういえば私はユタカさんに、名前を呼ばれた事が一度もございません。けれども、もしも、ユタカさんが優しく私の名前を呼ぶようになりましたら、私は水曜日にユタカさんの会社の床も磨きに行く事はなくなるでしょうし、この部屋ではない同じような部屋を見つけてそちらに引っ越してしまうでしょう。

私が実家を出た翌日に首を吊った義父のように私の名前を呼ぶようなことをユタカさんがなさらないでいるのを、ひっそりとささやかに望んでいます。

義父は本当に勝手な男でした。働かず、日がな一日何もせず、酒を飲み私の母と私を殴り、母から搾取できる全てを搾取しました。母から私をも搾取しました。私が家を出た時の義父の声が今も耳について離れません。

「出ていくなら、死んでやる。俺にはお前が必要なんだよ。出ていったら死んでやるからな」

義父は本当に死んでしまいましたが、私はおかしくてたまりませんでした。必要とされたいなどと私が言ったことなどあったでしょうか。けれどもそんなこと、誰が相手であろうが御免です。

私は自分が必要とする分には構わないのですが、誰にも必要とされたくはないのです。

ご婚約者さまはご心配されておいででしたが、同じ理由で、私は子どもなぞ持ちたくはないのです。

プツリ。

指先に広がるあの音と同時に私の顔に膿が飛んで来ました。ティッシュペーパーで顔についたそれを拭いているとユタカさんは失笑なさいます。

私は失笑に頷くとまたニキビを潰します。

飼われている事に気づかなかった仔猫とユタカさんは本当によく似ています。

ーーマンション買ってやるからそこに住まないか?

ーー欲しい物は何でも買ってやるから言え。


ユタカさんの申し出はいつもちぐはぐで面白かったです。仔猫に養ってもらう飼い主なぞこの世の何処にいるというのでしょう。あの時の仔猫は私が実家から出て行く数ヶ月前にいなくなりました。どんなに探しても見つかりませんでした。ユタカさんはいつか、あの仔猫のように、それなりの予感を残して、跡形もなく消えてしまうかもしれません。

例えばこのニキビが全部なくなることでもあれば。あるいは他に潰してくださる私のような女が現れれば。でもやっぱりユタカさんのような方の考えていることは私には想像し難い。

ただ、私はユタカさんが、私のこの部屋にいる時間を、命の爆ぜる音を聞く時間を愛しているのです。

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