見出し画像

【ダスカロスの教えに学ぶ29】真理はひとを自由にする(「真理の言葉」第16章より)

今回は、「真理の言葉」16章を学ぶ。


真理はひとを自由にする

キリストは「真理はあなたがたを自由にする」といった(ヨハネ福音書8章 32節)。わたしたちが エゴイズムを克服 し、マインドのマスターになる ことができれば、無知(闇)から解放されるのであるが……そのような “真理” はほとんど、家庭学校では教えられていない

現在、私たちの周りを見渡せば、ほとんどすべての人々がいろいろな問題を抱えていることが見えてきます。時には、教育ですら人生を満足のいく道に導くことにあまり役立っていないのです。高等教育を受けた人でも、教育を受けていない人でも、人生の問題に直面していることに気付きます。

このレッスンで、私は誰でもが自分たちの問題に対処できるようにしたいと思います。先ずあなたは、肉体における生命が何であるかを理解しなくてはなりません。永遠の生命神である絶対存在 であり、何か別のものです。それを理解するためには、深い思考瞑想集中を通して、自己意識を非常に高いレベルまで上げていくことが必要です。もちろん、それは誰でもできることではありません。しかし、人間の形態 での生命、あるいは人間としての生命とは一体何でしょうか? これは誰もが知らなくてはならないことでそれにより各自の問題に十分対処できるのです。肉体の中における生命とは何でしょうか?

植物界で、木々は成長し花をつけ実を結ぶように、物質形態の中には生命があります。動物界の肉体にも生命がありますが、その生命人間の肉体にある生命とは非常に異なっています。骨や肉、血液や多くの臓器は機能して働かなくてはならず、それによりこの肉体における生命システム一時的に存在し続け、そして生きています。

私たちは物質的な体に表現されたあらゆる種類の生命学ぶことができます。しかし、最も必要なことは人間の生命について学ぶことなのです。私はこれが誰もの責務だと考えます。

世界中の学校で、多くの事が教えられていますが、それらのほとんどは不必要なもので、もし関心さえあれば図書館で見出すことができるものばかりです。しかし、誰しもが知るべきことの多くは学校や家庭で教えられていません子供たちにこの重要な智恵を教えることが、家族学校責務だと私は考えます。それは「生命が何であるか?」、「人が生命から何を期待できるか?」、「私たちが生命をどのように評価すべきか?」、「他の多くのパーソナリティーから離れて、一つのパーソナリティーとしての人間とは何か?」ということです。

男であっても女であっても、人としての肉体は、その素材と物質という面で、ある程度類似しています。しかし、すべての人々の パーソナリティー は一人ひとりかなり異なっています。何故なのでしょうか? 人のパーソナリティーは、その人の体の物質的組成の産物でしょうか? それは少し前まではそのように考えられてきたかもしれませんが、それは間違いなく人の肉体の産物でも、肉体の組成でもありません

大変健康な人であっても、愚かな人もいます。科学者で大変に健康な人もいます。天才であるにもかかわらず、大変虚弱で、またある原因でかなり病弱な人もいます。また、虚弱であり、病気の人で愚かな人もいます。このように、物質的肉体の状態は、その中に生きているパーソナリティーには何の責任も負っていません

「真理の言葉」261‐263ページ、一部の太字化はNoelが実施

「わたし自身の人生」を振り返ってみると、実家は 安芸門徒 で、幼少時から仏教的な教えに触れる機会は多かった。浄土真宗 の「人間はみな仏さま、阿弥陀如来 の 本願 によって死後は全員お浄土にゆく」「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」(悪人正機)などの教えは堅苦しくなくて好きだったが、その教えを心底学びたいとか、帰依したいとは感じられなかった。

一方、公教育の場はどうだったかというと、倫理学生物学心理学などの授業は一通り受けたけれども、物質性を超えた人間の真実について学べるような授業は皆無だった。

で、これがちょっと謎なのだが……家族や親類にクリスチャンは一人もいなかったにもかかわらず何故か? 祖父母の家の本棚に「イエズスのおかあさん」という本があった。

いま思えばこの本と、7歳のときに叔父からもらった「ノンちゃん雲に乗る」が、わたしのスピリチュアルな旅の第一歩だった。が、そこからがとてもとても長かった、、、エゴイズム のぶんだけ寄り道し、カルマによる学び をたくさん重ねた結果、キリストの示した “” の正しさが骨身に沁みてわかった。

「真理の言葉」16章では、“人間が学ぶべきこと” として、以下のようなことがクローズアップされている。

*まずは 3つの体肉体サイキカル体ノエティカル体)と、3つの体の鋳型となっている エーテルダブル について学ぶ。エーテルダブル3つの体に浸透しつつ、体の周囲にも広がっている。エーテルダブル3つの体エーテル(感覚エーテル・運動エーテル・刷り込みエーテル・創造エーテル)を供給しており、 エーテルダブルが消滅すると3つの体は機能を維持できなくなって崩壊する。

マインド について学ぶ。思考、感情、肉体(物質)などのすべてが形態化されたマインドマインド理性的に使うことにより、私たちはほんとうの自己を知ることができる。

*「パーソナリティー としての自己」について学ぶ。パーソナリティーは、じぶんが過去に創った エレメンタル 群から構築され、それらのエレメンタルは 潜在意識 にストックされる。

サイキカル体(感情体)はパーソナリティーの主要な体で、潜在意識の状態が強く反映される。欲望感情を学び、現在のパーソナリティーを構成するエレメンタルがどのように創られ、どのような性質を持っているかを学ぶ。

サイコノエティカル 領域の思考感情は切り分けが難しい。が、サイキカル体(感情)とノエティカル体(思考)の周波数的違いに気づき、個別に働きかける訓練を積むことで、ノエティカル体(思考)によってサイキカル体(感情)と肉体(物質)を制御できるようになる。

欲望思考型エレメンタル(「人-悪魔」、エゴイズム)の非活性化と、思考欲望型エレメンタル(「人-天使」)の創造を学び、3つの体パーソナリティーを健全に保てるようにする。

*わたしたちは3つの体でも、パーソナリティーでもない。人間の本質は (絶対無限の存在)である 永遠の存在聖なるモナドとしての自己 ……で、その自己が 人間の形態(人間のイデア)をまとい、分離の次元(3~5次元)に降りてくると、魂としての自己 を表現するようになる。わたしたちは、個別化された自己性 なのだ。

集中瞑想観察内省 などを実践し、自己意識 をより高次のレベルに引き上げ、時間-空間-場所に制約された 一時的パーソナリティー永遠不滅の自己永遠のパーソナリティー)に一体化(注:これは個性の喪失ではない)させてゆくと、“自己意識 の目覚めに至る。キリストはそれを、「朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになる」と教えた(コリントの信徒への手紙1 15章 53節)。

一体化アチューンメント)には、多くの学習と努力を要する。認識力を拡張しサイキカル界ノエティカル界の印象を疑いようのない “事実” として認知できなければならない。

エクスタシー によって人間真理)を完全に理解し、真理)と一体化する(テオーシス)。

他にもいろいろあるが、焦ることはない。時間も空間も場所も無限にあるのだから……今世で達成できなければ、来世で学べばよいのだ。

“自己” が何であるかを定義する

自己” が何であるか定義しなさいといわれたら、「霊であり魂であり永遠不滅の存在であり神である」とわたしは答える。「ダスカロスの教え」を拝借しただけのオウム返しに聞こえるかもしれないが、この言葉の土台には、じぶん自身の経験実感がしっかり据えられている。

ダスカロスは、後から来る人たちのために “” を整えてくれた。そのお蔭で理性的に考え、迷い疑念の霧を払うことができている。

霊としての自己」である私たちは、過去にも存在し、現在も常に存在し、また将来にも存在し続けます。「魂としての自己」は不滅で永遠の存在なのです!

あなたは「はい、でも私はなぜそれを知らないのでしょうか?」と言うかもしれません。もしあなたが少しだけ内側を見ようとすれば、それを知ることができるのです。パーソナリティーとしての自己 は、物事に対する注意をいつも外だけに向けます。内在するものを観ること、それが 内省 です。それは私たちの自己を見ることであり、また、私たちの真実の自己を観ることになります。それから、目を外側へ転じることができます。そうすると、場所や空間、環境や局在性、そして私たちの周りのすべての状況が何を意味しているかを理解できるようになります。外の世界において、人生が私たちに与えているものは、本当の満足をもたらすようなものではありません。なぜなら、外側からの物事一時的な満足を与えるだけのもので、幸福からはほど遠いものだからです。

私たちに内在するものを観ることにより、物事を学ぶことができます。しかし、このことは、私たちが生きることをやめ、理性や修得した新たな力を使って物事を外側から理解することを止めるべきだと言っているわけではありません内側を観ることとは、私たちの真の自己を探究し見出すことを意味しているのです。

「真理の言葉」270‐271ページ、一部の太字化はNoelが実施

わたしたちは外側にある何か誰かが、じぶんの欲求を満たしてくれることを期待する……が、たとえ願いが叶って欲しいものが手に入っても、満足感長続きしない。それどころか、前よりも強い不満渇望に苛まれたりする。

なぜ

真理” の探求は、この「なぜ?」から始まる。物質的な執着は手放してもいいが、この「なぜ?」だけは手放してはいけない。なぜなら、それが人間を自由に導く ” だから! で、もちろん探究は「なぜ?」の答えをみつけたら終わりではない。学んだことを実践してゆかなくてはいけない。そしてそれが、「」という故郷へ戻るための “じぶんの道” となる。

私たちはこの物質界を最初の 天の王国 と呼んでいます。しかし、それが全てではありません。最愛の「」であるジョシュア(Noel註:キリスト)は、何と言ったでしょうか? 「天の国はあなたがたの内にある」(七つの天国 を辿ることができます)と言いました(Noel註:ルカ福音書17章 21節)。私たちはこれらの天国見出すことができるのでしょうか?

私たちは遅かれ早かれ、真の本質である「」という故郷へ戻らなくてはなりません。私たちは物質形態の中にいつまでも留まるわけではありません。一つの形態としては留まりますが、物質形態と同じようにサイキカル形態ノエティカル形態の中に存在していきます。しかし、それは重く粗い物質の中ではありません。私たちは先ず初めに、私たちの内天の国を見出さなくてはなりません。私たちの内と言うことは、私たちの 三つの体 の中にという意味ではありません。それは「」としての私たちの真の本質の内にあります。それは何でしょうか? それが生命自身なのです。私たちは「生命は神である」と言いました。このことについて、キリストは何と言っているでしょうか? 「あなた方はであり、全能なるお方の子である。あなた方すべてが……」と述べ、人間であるすべての人々が、そうであると言っています。もちろん、これらを理解するためには学びと分析が必要となります。

ただ闇雲に学び信じることは意味がありません。学び理解しそのように生きることが必要なのです。すなわち、真理と共に生きることです。どのようにすれば良いのでしょうか? どのように行動するのでしょうか? 私たちは 内省 を通して、それを探索することができます。基本元素(エレメント)の主である 聖なる大天使たち の協力の下で、人間人間の形態 を与えることを決断された時、は「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」(Noel註:旧約聖書、創世記1章 26節)と言われました。(Noel註:神)は話したのでしょうか?

いいえ、ご自身願いと喜び波動させた のです。それを聖なる大天使たちアチューンメント により受け取り、協働して人間の体を創造し始めたのです。

人間の創造、男あるいは女としての人間の体(Noel註:人間の「霊-魂」は「体」のような被造物ではない。神と同じ、始まりも終わりもない永遠の存在)は、精子から始まり、自然の方法により創造されるために、(他の二つの体も)が女性のお腹の中で創造され子供として生まれてくることを決めました。これは偉大な神秘です。

「真理の言葉」271‐272ページ、一部の太字化はNoelが実施

真理”と共に生き、““と共に生きよう

が私たち(Noel補足:の3つの体)を創造された時、彼は歩くための足を、作業するための手を与えてくれました。彼はまた利用し働かせるための心(Noel註:パーソナリティー)を与えてくれました。私たちはそれを使っていますか? (Noel註:感情の体であるサイキカル体)を使っていますか? 論理的に考えて(Noel註:思考の体であるノエティカル体を使って)いますか? 観察 において、を使っていますか? その時に、注意を払い、この世界の私たちの周りで起きている物事を知り把握しようとしていますか? この世界での私たちの本当の役割は何なのでしょうか? 私たちの人生の目的は何なのでしょうか? 人生とは何でしょうか? 人間の形態である人体の中にある生命とは何でしょうか?

私が言いたいことは、学ばれるべき最も大切なことが、家庭でも学校でもほとんど教えられていないということです。真理の探究者は、私たちの現実についての真理を教えようとしています。現実において、私たちは何なのでしょうか? とは何でしょうか? 私たちはを信じるようにと言われてきました。とは何を意味しているのでしょうか? 神を信じることとは何を意味しているのでしょうか? どのを信じたら良いのでしょうか? は私たちがを信じることを必要とされているのでしょうか? もちろん、そんなことはありません。

私はある科学者が、「あらゆる神々は間違いなく自分たち自身を惑わす必要があった人間たちによって創造されたのである」と言っているのを耳にしたことがあります。もちろん、私たちはあらゆる時代を通して、人々が恐怖必然性に応じて神々を創造したことに同意しています。それらの神々は存在したのでしょうか? また、彼らは現在もまだ存在しているのでしょうか? はい、彼らは存在しましたし、今もまだ存在しています。彼らがエレメンタルと呼ばれているものをまったく知らなくても関係ないのです。

聖書でキリストは、このエレメンタルについて語っています。真理に関するすべて新約聖書の中に発見することができます。エレメンタルマインドからつくられ、形態である形を持っています。それは多くの人々によって保持されることによりその力を増します。これは間違いないことですが、それらを信じる人々に仕えるためにつくり出されます。それらを偽の神々と呼んでもかまいませんが、それらは信じる人々に仕えてきたのです。人類の発展と共に、これらの神々のあるものは捨て去られてきました。

「真理の言葉」273‐274ページ、一部の太字化はNoelが実施

人間によって創造された エレメンタル の神々については、これまで何度か書いてきた。

エレメンタルは、それを創った人間の願望 果たそうとする

エレメンタルは3次元的な時間や空間に縛られることなく、願望実現のおぜん立てをするためにプログラムされた機械のごとく働き続ける……が、エレメンタルマインドを使えないので、波動的に共振する人間や他のエレメンタルに作用することで願いを叶えてゆく。

真理の探究者” は、ほんとうの神エレメンタルの神々区別できなくてはいけない。これまで何度も繰り返し書いてきたことだが、わたしたちの “自己” はエレメンタルの集合体であるパーソナリティーでも、3つの体でもない。わたしたちの “真の自己” は、永遠の存在としての「エゴ」(聖なるモナドとしての自己)なのだ。

は私たちが生きるための肉体を与えてくれています。愚かな生活の仕方により、いわゆる健康を害したり、適切な機能に障害を与えない限り、その肉体完全な状態におかれています。そして、基本元素聖なる大天使たち は協力し合って、私たちの肉体を秩序ある状態に保つために休むことなく働き維持してくれています。私たちは肉体に適切な食べ物を与えきれいにしている以外肉体に特別な世話をする必要がありません

すでに話したように、私たちにはサイキカル体を構成するためのサイキカル素材(Noel註:マインド素材 のこと)が与えられています。それは形態として、肉体とまったく同じ形をしています。私たちはそれとワークをしなければなりません。なぜなら、その特質は私たちの 現在のパーソナリティー の質となるからです。主にサイキカル体に働きかけなくてはなりません。それを知る前でも、利用する前でも、肉体とは独立させた形でそれを浄化することができます。私たちの感情欲望本質を知ることにより、それらがどのようにつくり出され、どのように対応すべきか、どのようにしたら私たちのパーソナリティーをその奴隷にさせないか、あるいはどのようにしたら私たち自身のエレメンタル奴隷にならないようにするかを学ばなくてはなりません。

「真理の言葉」275ページ、一部の太字化はNoelが実施

3つの体の形態、物質を楽しむ

3つの体は、各々の の計画に沿って相応しい形に創られていて、ひとりの人間の肉体、サイキカル体、ノエティカル体は「同じ形」に創られるようにできている。

マインドを使い始めると、あなたはもっとが与えられます。あなたが手を使い訓練しない限り、あなたの手は決して強くならないでしょうし、またどんな技量も身に付けられないでしょう。マインドについても同様です。マインドは人間の脳ではありません。人間の脳は充電器のようなもので、電気がない限り、それは何の役にも立ちません。ですから、物質的な脳マインドを使いパーソナリティーによって利用されるものなのです。それを通して、自分自身を感情的に、また動的に表現するためのものです。

私たちはこのような生き方について学ばなくてはなりません。何を見出すことができるのでしょうか? 私たちのサイキカル体開発させていくと、私たちの自己意識肉体からサイキカル体移行することができるようになります。先に述べたように、サイキカル体ノエティカル体形態として、肉体と同じような形です。なぜなら、肉体これらの体の結果だからです。では、サイキカル体の頭には、肉体の頭にあるような脳があるのでしょうか? いいえ、ありません。サイキカル体全体思考の源(※)です。私たちの肉体五官があるように、サイキカル体には視力や聴覚や触覚の器官があるのでしょうか?

いいえ、ありません。サイキカル体を構成する一つひとつの粒子が眼であり、耳であり、脳なのです。しかし、それを使うためにはあなた自身を訓練しなくてはなりません。使い方を学ぶことにより、時間の経過と共に、あなたは 超自己意識 と呼ばれているものを得ることでしょう。私たちは肉体エーテルダブル訓練することによっても、この種の超自己意識を得ることができるのです。

肉体は私たちが使っているのうちで、一番弱い体です。私たちの意識は、もっと訓練され善なるサイキカル体の中で、もっと楽に生きられるのです。ほとんどの人々を苦しめている感情思考欲望マスターしない限り、私たちは訓練された善なるサイキカル体を得ることはできないのです。

そのためには、もっと多くの学びと、内省と、そして欲望感情マスターするための意志が必要となります。私が言いたいことは、その最初のステップであり、最も重要なことは、私たちの(Noel註:意識)を理性思考を使って、欲望感情奴隷から解放することなのです。

ーーー(中略)ーーー

あなたは問題心に浮上させなくてはならないでしょう。その分析を始め、それに多くの「なぜ」を使い質問します。そして、時間の経過と共に、私たちはこれらのエレメンタル(すべての感情や欲望がエレメンタルです)を非活性化することにより、いろいろな状況のマスターになっていきます。他に方法はありません。

(※)思考の源:サイキカル体は通常感情の体として理解されているが、感情を持つためには先ず思考が起きなくてはならない。サイキカル体の中で、思考は単に脳の中を通過するようなものではなく。サイキカル体全体を通過してくるために深い意味として “思考の源” と表現することができる。

「真理の言葉」276‐279ページ、一部の太字化はNoelが実施

聖霊 と 基本元素の大天使たち が人間の3つの体創造する際、「ノエティカル体の形態」が「サイキカル体の形態」に、「サイキカル体の形態」が「肉体の形態」に投影される。が、3次元に産まれ育った大人は通常(というのは 第4段階の意識レベル)、3つの体の間に意識的な連携がない。「じぶん=肉体」と思い込んでしまっているので、サイキカル体ノエティカル体とのコンタクトや操作性の向上を図る必要がある。で、その際は、「3つの体の形態は同じ」という前提でワークしよう。守護天使と一緒に選んだ肉体だから……いまの肉体を十全に愛し肉体と共にベストを尽くそう。

ただし、別の転生においては、違う形の3つの体を持っていたことも意識しておこう。個々の人間の形態には、数多の転生における形態がすべて含まれている ので、霊的な成長が進み、“自己意識 に目覚めたら、じぶんの望む形態で自己を自由に表現できるようになる……が、そのレベルに至るには、じぶんのパーソナリティーを、感情と欲望の奴隷状態(エゴイズム)から解放しなくてはいけない。

難しさは現在のパーソナリティーを「個別化された自己」である私たちの真実の自己アチューンメント することにあります。パーソナリティーとは、私たちの表現であり時空場所における一時的な存在です。しかし、私たちの真実の自己として「個別化された自己」なのです。そのために、努力現在のパーソナリティーから始められるべきです。なぜなら、それが利得をこうむるものだからです。私たちは先ず、パーソナリティーとしての自己について知り、理解することから始め、それからその自己を高次の自己に同化するための欲求を感じることへ進みます。

これらの欲望感情本質を知り、それらが人に満足を与える方法を理解しない限り、人は欲望感情を引き起こす欲求弱さから自己を完全に自由にすることはできません。これが、与えられた状況と条件における正しい思考
と私が呼んでいるものです。このタイプの 瞑想 有益ですが、何処にも導かないような他のすべての瞑想(東洋で提供されている)とは大変異なっています。私は “内省” と呼んでいます。それは内在するものを観ることであり、「自己分析」なのです。患者を苛むエレメンタル重荷から如何に解放させるか、その方法を知ることがすべての精神分析医の目的であるべきです。これらのエレメンタル、すなわち「マインドによる感情形態」は、理性で非活性化することが可能です。そうすれば、私たちはそれから解放されるでしょう。

私たちがあらゆる感情あきらめるべきだと言っているのではありません精神的に気高い感情もあります。私たちはこの惑星上で感情マスターするために存在しています。それは私たちの人生から感情を完全に追放することではありません。私たちはこの惑星上で物質を楽しむために存在しています。絶対存在が私たちに肉体を与えてくれていることをなぜ考えないのでしょうか? なぜ基本元素聖なる大天使たちは、これらの肉体の中でいつも働き続け、私たちがその中で生きて行けるように秩序を保ってくれているのでしょうか? その裏に大変崇高な目的がなければ考えられないことです。

「真理の言葉」279‐281ページ、一部の太字化はNoelが実施

ダスカロスは観察力と集中力を駆使し、マインドを意識的に使う 内省 を重んじる。そうやって “内なる自己を知る” ことを 瞑想 と呼び、憑依のリスクがある東洋的な “心を無にする瞑想” は推奨していない。

「私たちはこの惑星上で、物質を楽しむために存在しています」という言葉は、物質奴隷になることを意味していない。わたしたちは「エゴ」として物質感情思考マスターとなり、あらゆる無知不自由から解放されるために生きている。

それがほんとうの意味での、物質を楽しむことなのだ。