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【ダスカロスの教えに学ぶ26】「人-悪魔」の非活性化/“空想”を超えた“現実”を観る(「真理の言葉」第14章より)


マインドを正しく使い、エゴイズムを非活性化しよう

人間は 絶対無限の存在(神)から、マインド超素材 を利用する恩恵を授かっている。加えて “自由意志” も有しているため、人間には「“自己意識 に目覚める自由」も、「無知(分離)の闇に落ち込んでゆく自由」も許されている……が、やりたい放題できるわけではない。

原因と結果の法則(カルマ)が、苦しみの原因となる「悪魔」(欲望-思考型エレメンタル)を抑制し、マインド超素材を “自己”意識 的にノエティカル・イメージ化する智恵)や、分離の次元(3~5次元)から6~7次元に戻る智恵)を得る機会を人間に授けている。

しかし時に、人類の “集合的無知”(集合的な エゴイズム) が極度に膨れ上がり、それが “集合的破滅” をもたらすことがある。旧約聖書 にある ソドムとゴモラの滅亡 や 大洪水とそれを逃れたノアの箱舟 の話はじっさいにあったことで、現代社会も同様の自滅の可能性を孕んでいる、、、

キリストの教え”(真理)が理解され、“自己意識 に目覚めたひと が一定数以上誕生すれば、“集合的破滅” は回避できるだろう。 “キリストの教え” を信じるクリスチャンは、“集合的破滅” の抑止のために働かなくてはならない。「個々の 現在のパーソナリティー 」および「人類の集合意識」に巣食った「悪魔」を、積極的に非活性化してゆかねばならないのだ。

まず第一に、欲望とは何でしょうか? なぜ求めるのでしょうか? 私たちは一体何を求めているのでしょうか? あれやこれやを自分のものにしたいと思う自分の欲望を理解していますか? 人は本当にあれやこれやを求めているのでしょうか? いいえ、そうではありません。人は単純に求めるだけなのです。それらは欲望がもたらすものなのです。このように欲望に仕えることは、神聖なる マインド超素材 奴隷化していることになります。なぜなら、欲望に奉仕し、自分が欲していると思い込んでいる物事を所有するための方法や手段を見つけ出すことに手を費し、それらを所有し、“自分のもの” と呼ぶことが目的となるからです。このため、私たちは “所有欲”(※)と呼ばれている人間の生存に関るこの枝について学ばなくてはならないのです。

この分枝の学びをさらに深めていき、“感覚感情” と呼ばれているものを理解しなくてはなりません。感情欲望は同じものでしょうか? 正確には異なります。両者は同じ本質に由来しますが、同じではありません。欲望は私たちが感情と呼ぶものではありませんが、時々同じ影響をもたらすことがあります。

先に話したように、私たちはマインドを使って感情を学ばなくてはなりません。(欲望の奴隷としてではなく)そうすると、何を発見できるでしょうか? 先ほどのケースでは、欲望マインドのマスターになってしまったかのようでしたが、今度は私たちの感情感覚マインドのマスターにすることになります。私たちが自分たちの感情を学ぶ時、特に人間関係において学ぶ時、私たちはそれを時間と場所の個人的な自己、すなわち “エゴイズム” と呼ばれている非本質的な自己の現れとして見ることになります。ここに危険性があります。なぜなら、私たちは偶像をつくり上げているからです。

そして、私たちは最悪の種類の偶像崇拝盲目的崇拝者となってしまっています。私たち自身がつくり上げている偶像を自己と呼んでいるのです。もちろん、それは私たちの自己ではなく、パーソナリティーのエゴイズム” に過ぎないのです。しかし、私たちはそれを理解できず、ほとんど知ることもできません。そのために、その偶像(私たちは「悪魔」と呼んでいます)が、私たち自身であるとみなしています。このことが、私たちを真実に対して盲目にしているのです。しかし今、物事をはっきりと捉えられることができるようになり、私たちはこの悪魔、すなわち私たちの全人生の悪魔に対するマスターになることができます。この悪魔は四六時中それ自身の欲望と感情を満たそうとしています。(一方、私たちはそれらを私たち自身の欲望と感情であると捉えています) また同時に、その欲望や感情に仕えることで、マインド超素材を奴隷化しています。

【訳注】所有欲:分離の世界 に生きる現在のパーソナリティーである私たちの、生存に関る潜在意識として五つの枝分かれをダスカロスが示している。その内の一つが「所有欲」で、所有することから喜びや恐れや不満足がさらに分岐されていくと説いている。

「真理の言葉」209‐211、一部の太字化はNoelが実施

ダスカロスのいう「生存に関わる 潜在意識 の五つの枝分かれ」とは、「所有欲」、「自己顕示欲」、「支配欲」、「間違った解釈」、「成功欲」であるが、これらは潜在意識的な欲望” で、“自己意識的な欲望” も存在する。“欲望”(さまざまな振動レベルの意志の力)= “エゴイズム”(「人-悪魔」)ではないのだ。

エゴイズム” がなくても人間は生きていけるが、“欲望” は人間のパーソナリティーを構成する エレメンタル の創造と維持に欠かせない マインド・バイタリティー だ。「悪魔」(欲望-思考型エレメンタル)は “思考” が “欲望” に従属し、「天使」(思考-欲望型エレメンタル)は “思考” が “欲望” のマスターであるが、「エゴとしての自己」が  “マインド超素材” を 思考” として形態化しなければ、いかなるエレメンタルも創造されない。

つまり「悪魔」は、「分離の次元に投影された自己」(時間と空間 の自己)の一部……ということ。

このことには、もっと学びが必要です。この時点で、私たちはどのようにしてマインド超素材適切に使うのかについて見つけ出さなくてはなりません。私たちが使うのです。私たちとは誰でしょうか? なぜこの質問が出てくるかというと、人間のエゴイズムと呼ばれている「悪魔」は、常に「私があなたである」とアピールしているからです。この状態を理解できますか? それは「私が私であるとは決して言いません。これにより、「悪魔」が私たち自身ではないことを発見するのです。それは「私があなたである」と言い、私たちを困惑させます。このような時こそ、「私たちが誰であるか?」 また「あなたとは誰であるか?」について、“自己分析” を始めるときなのです。そうすると、私たちは、この鈍く粗い物質界である 存在の世界 における二元的自己を発見することになります。そして私たちは、この物質界のすべてのものが二元性に基づいていることに気づき知ることになります。ですから、この二元的な自己の一方が本物の自己であれば、他方は陰であり真実ではないことになります。

私たちの「エゴとしての自己」(まだの段階ではなく)は、エゴイズムを見つけ出して、次のように言うでしょう。「しばらくの間は 時間と空間 の自己として、『私があなたである』と言うおまえは正しいかもしれない。なぜなら、私がおまえの中にいなければおまえは存在できないからだ

このように、男でも女でも人間のパーソナリティーにはが存在し、それは表面に現われてこないの存在なのです。今現われているものは、過ちを持った時間と場所の狭量な自己なのです。そして、私たちの中に隠れている「エゴとしての自己」は、時間と場所の新たな自己の現れ認めているのです。そのために、誰かがマリーやヘレン、あるいはジョージやジョンとしてのあなたに、「あなたは何者ですか?」と尋ねた時、あなたの答えは、あなたが「エゴとしての自己」とパーソナリティーのエゴイズム両方であるということになります。一つの肉体二つが存在しているのです。

では、時間と場所の自己にあるエゴイズムは、この自己の中で一体どの位の割合を占めているのでしょうか? そして、「エゴとしての自己」は時間と場所の自己に対してどの程度のコントロールを行っているのでしょうか? これらはあなたが学習しなくてはならないことです。誰がこれらを学ぶのでしょうか?

これらを見つけ出すことは、内省、すなわち “内在するものを観る” ことを行えば、そんなに難しいことではありません。あなたの行動感じ方考え方をただ念入りに調べ、学びましょう。あなたの手に “なぜ” という名前の松明を携えて、真理が知りたいと自分に命じましょう。その燃え盛る松明の光を通して、私たちは真理を知ることができるのです。

自分自身に問うてみましょう。「なぜ私はあれが欲しいのか?」、「なぜ私はあれを求め、自分のものにしたいのか?」、「なぜ私はそのように考えるのか?」 この “なぜ” が燃える松明なのです。しかし、注意して下さい。あなたの狭量な自己は「なぜ、こんなものを持たなくてはいけないのか? なぜあの男は私より運が良いのか?」と言って、あなたの手から “なぜ” を取り上げようとするからです。ですから、十分に注意しなくてはなりません。私たちが “なぜ” と呼んでいるマインドの燃える松明を、あなたの手、すなわちあなたの「エゴとしての自己」から取り上げることを、現在のパーソナリティーのエゴイズムに許してはならないのです。

「真理の言葉」211‐213、一部の太字化はNoelが実施

エレメンタルには、それを創った人間の “”(魂の波動)が宿っており、意志を持った生命体のように振る舞うことができる。エレメンタルが 創った人間を離れ同種の周波数を持つ他者に影響を与える こともあるが、エレメンタルは “生命力” を維持するため、必ず創った人間のところに「戻ってくる」という性質がある。このことは新約聖書マタイ福音書12章 43‐45節、ルカ福音書11章 25-26節)で、「悪魔」(汚れた霊)が戻ってくる話として語られている。

「人-悪魔」を非活性化する方法

ーーー(2023/11/13追記)ーーー

ダスカロスの著書「キリストのたとえ話」から、具体的な「悪魔」の非活性化方法について書かれた部分を引用しよう。

さて、達成されない欲望(Noel註:エレメンタル)はどうなってしまうのでしょうか。私たちは、過去世現世における負い目(罪)の重荷により、人生の現状では達成不可能な欲望を持っている場合もあります。それらは、どうなるのでしょうか。それらは、今後の転生において達成されることになるでしょう。すでに話しましたが、さらに注意して聞いてほしいことがあります。それは、現世でのあなたの欲望や欲するものとは、今後の転生において、あなたの歩むべき道を見出す上で必ずしも足がかりにはならないということなのです。すなわち、あなたが今欲するほどには来世それらを必要としないことに気づくことになるからです!

例をあげて説明しましょう。この聖句(Noel註:ルカ福音書11章 5-13節)の前半で、“ある行為” について触れました。すでに理解されているように、あらゆるエレメンタルは、たとえそれらの質が邪悪なエレメンタルであっても、あるいは善きエレメンタルであっても、それらが創造された時の欲望はいずれ達成される趨勢を持っています。私たちはサークルのレッスンで、「欲望が達成される前に、もし私たちが “悔い改め”、すなわち心を完全に入れ替えることができればそれらの欲望のエネルギーを非活性化できる」ことを指導しています。もし私たちが充分に賢く、ある種のエレメンタル、あるいは感情的に激烈なエレメンタルのエネルギーを弱体化できると仮定した場合、これらの欲望が後に達成された時に、それにより私たちが受ける利得より、私たちが被るであろう害の方がはるかに大きいことに気づくことでしょう。このような賢さの決め手は、“理性の働き” にあるのです。

では、どのように行動すれば善いのでしょうか。そのようなネガティブなエレメンタルのエネルギーを無効にするには、新たな建設的なエレメンタル」を創り出し送り出すことにより、ネガティブなもの置き替えなくてはなりません。さて、どのようにして、ネガティブなエレメンタル非活性化するのでしょうか。これらのエレメンタルを殺すことは可能でしょうか。いいえ、エレメンタルを殺すことはできません。彼らは存在し続けます。そして、彼らのあるものは、私たちによって再活性化されることもあります。しかし、抹殺されることは決してありません。しかし、彼らのエネルギーを非活性化することは可能なのです。私たちが再活性化してしまったこれら個々のエレメンタルを弱体化させることにより、宇宙意識 へと送り出すことができます。そこで、彼らは同種のグループに加わることになります。

しかしながら、一つのエレメンタルを弱体化させることはそう容易なことではなくそのエレメンタルが蓄えているエネルギー量と同量のエネルギーと力を使わなくては効果が現れません。このことが示している事実とは、あなたにとってエネルギーの二重の浪費になってしまう点です。すなわち、あなたがそのエレメンタルを創り上げるために費やしたエネルギー量、その後にそのエネルギーを非活性化するために費やすエネルギー量のことです。このような「ネガティブなエレメンタル」を非活性化するためには、それに換わる「ポジティブなエレメンタル」をもう一つ新たに創り出さなくてはなりません。これは可能な方法なのです。

しかし、ここで大切なことは、私たちがエレメンタルを生み出した時の目的である欲望願望達成される前に、このような方法でそのエレメンタル非活性化し手放すことにより、宇宙意識の中に送り込み静かに留めて置かなくてはならない、ということなのです。もちろん、これらのことは私たちが指導しているレッスンの一部に過ぎません。

「キリストのたとえ話」176-178ページ、一部の太字化はNoelが実施

ーーー(追記おわり)ーーー

悪魔」の非活性化は “関心”(エーテル・バイタリティー)を注がなければできるが、それは存外に難しい、、、考えないようにすればするほど考えてしまったり、集合意識的に活性化されたグループエレメンタルの影響は避けがたかったりする、、、が、対策はある。それは、現在のパーソナリティー を構成する「悪魔」を6次元の波動変容し、永遠のパーソナリティー に融合させてゆく……というもの。

あなたがしなければならないことは、あなたのパーソナリティーの中で、いわゆる悪魔的あるいはネガティブなエレメンタルと呼ばれているものを非活性化し、あなたの「魂としての自己の中へ変容させることです。これはキリストであるジョシュアイマヌエルが述べている教えで、現在の個人としての自己である死すべき者が、不滅性を身に着けることになる、すなわちあなたの不滅の魂としての自己」であるあなたの自己へ変容することを示しています。そして、変わるべき者が変わらざるべき、永遠の存在になるのです。

そのため、あなたの個人的な自己と呼んでいるものを殺す必要はなく(いずれにしても、殺すことはできないので)、それをただ変容させるだけなのです。言っておきますが、始めはかなりひどく反応してくるものです。しかし、あなたがその個人としての自己、すなわちエゴイズムを、あなたの滅びることのないエゴとしての自己」に変容させることが実は善なることであることを納得させれば、それはもはや抵抗せず身を委ねることでしょう。

あなたの個人的なエゴイズムと呼ばれているどんなエレメンタル、あるいはグループエレメンタルと決して戦ってはいけません理性を使って説明しましょう。時間がかかるものですが、個人的な自己はあなた自身の「エゴとしての自己」へ変容させることができるのです。これが私たちの個人的なエゴイズムと呼ばれている潜在意識にあるエレメンタル、すなわち私たちのグループ化された悪魔へのエネルギー供給を止め非活性化する方法なのです。

「真理の言葉」217‐218ページ、一部の太字化はNoelが実施

Noel は、ダイアンフォーチュンさんのエレメンタル吸収法 をアレンジ ↓ して使っている(注:ダスカロスが教えたものではない)。

Step1、主の祈り を唱え、聖なるものに意識をチューニングする。

Step2、エーテル・ダブル 内の7つの エーテルセンター (2024/4/9追記:生殖器、太陽神経叢、肝臓、脾臓、心臓、甲状腺、頭部)をサーチし(振動が粗く重たいものは太陽神経叢や生殖器のセンターに侵入しやすい)、非活性化したい「悪魔の波動を捕えてエーテル・ダブルから分離する

Step3、抽出した「悪魔」の波動をゆっくり、 光り輝く「魂としての自己」(自己認識-魂)の神聖な波動に「変容」し、ハートセンターにある 永遠のパーソナリティー に融合させる。

Step4、太陽神経叢を明るいスカイブルーの光で満たし(聖霊 の管轄下にある性センターはノータッチで!)、ハートセンターローズピンクヘッドセンターホワイティッシュゴールドの光で満たし、全身を純白の光で包む。

Step5、「悪魔」の波動が消失したことを確認。

“空想” を超えた “現実” を観る

ほんとうのじぶんは “” であり、“” であり、“永遠の存在”(エゴ)であることを、言葉で説明するのはひじょうに難しい……が、真理の探究者はさまざまな学び、体験、ガイドの導き、観察内省瞑想、夢を思い出す、明晰夢、体外離脱 などによって、「エゴとしての自己」が “ある” と確信してゆく。

物質界、サイキカル界、ノエティカル界 は、人間の想像” や 空想” を超えた現実” なのだ。それを、“視覚化” と “観察力” を鍛えて体験してゆこう!

あなたは自分の「魂としての自己」をどのようにして見ることができますか? 何かに映し出すのでしょうか? そうなのですが、しかし外にあるものからではなく、内から外へとなります。このことについて、聖パウロ内省をギリシャ語で「エソプトロ」(esoptro)と表現し彼の書簡の一つで述べています。彼はを「カトプトロ」(katoptro)と呼び、私たちの内側を観ることを「エネソプトロ」(enesoptoro)と呼びました。それはどのようにするのでしょうか? 私はその方法を “内省” として示しています。学んでいくうちに、いずれあなたはどんなが関与しているか、すなわち物事を視覚化する力を理解できることでしょう。

視覚化を使い始めている生徒たちは、物事をイメージしたり、心に描くことの観念が分かるようになるでしょう。それは真実なのでしょうか? 想像とか空想というものは存在するのでしょうか? もちろん、存在します。では、どのように存在するのでしょうか? 静寂な水溜りの表面を覗き込むと、そこに見えるものはあなたの周りの全てが映し出されたものです。もちろん、見えるものは本物の反射にしか過ぎません。

肉体の目で見たあなたの周りの全ては、近づき、触れることができ、それらが存在し、そこにあることを確信できます。さて、内省 において、私たちが単に想像しているだけではなく、いわゆる想像や空想と呼ばれているものの下に置かれてはいないということを、どのようにして知ることができるのでしょうか? この質問はたびたび問われます。それを観たり、観察することはかなり難しいのでしょうか? 観察は、あなたの「エゴの神聖なる力の一つです。静寂なる水面に映ったものは真実ではなく反射に過ぎないことを理解して下さい。

「真理の言葉」219‐220ページ、一部の太字化はNoelが実施

観察力” については、下記で書いた。

視覚化” と “観察力” が、あらゆるものの中に反映された 神聖なる法則と原理 や 絶対無限の存在 の 意志の喜び をみつけ、それを確信させる。

このように、あなたは物事を分析し、見て、理解しなくてはなりません。どのようにすれば良いのでしょうか? よかったら、物事を想像してみてください。また、見て下さい。あなたは時間の経過につれて、見ることができるようになるでしょう。そうすると、あなたはサイキカル領域ノエティカル領域にある真実の物事を見ることができるようになります。私たちの周りの三次元の世界からの表出を受け、その印象を受けるように、サイキカル界ノエティカル界においても、大天使たち によって創造され維持されているその世界の真実の物事の現れが私たちにもたらされます。物質界で私たちがその存在を目にしているような山や海や木々はサイキカル界にも存在していますが、そこでは物質界で目にすることのないもっと多くのものを発見することになるでしょう。

物質界であなたの周りの物事を見るとき、あなたはそれらの存在を確証しています。では、物事を想像する場合はどうでしょうか? あなたが物質領域で見たことのないものを想像することはできないのです。想像とは、あなたの 潜在意識 の中で既に投影されたものをただ繰り返すことなのです。そうです、あなたが好きなだけ想像を廻らしても、それは想像に過ぎません。しかし観察を伴うと、その投影を真実の物事から識別し始めることになるでしょう。

もちろん、始めは物事を見ることから入り、それらを学ぶことでしょう。そしてある日、あなたはある状況にいる自分自身を発見することになります。その時のあなたは「私は想像を超えた世界に存在しているこれが現実なのだ。私はこの中で移動できる。すなわち、この中で動き回れる。私が物質界において肉体の手で物事を利用しているのと同じように、ここでも同じように使うことができる。さてここで、私はどんな種類の手を使っているのだろうか? ここはサイキカル領域と呼ばれているところなのだろうか?」と自分自身に言うことでしょう。さらに、あなたが想像したこともない物事を見ることになります。それらはどこから来たのでしょうか?

「真理の言葉」220‐221ページ、一部の太字化はNoelが実施

人間は誰でも、睡眠中サイキカル界やノエティカル界 で活動し、肉体の死後はサイキカル界やノエティカル界で生活する。その事実を “体外離脱” と呼ぶこともできるが、意識のフォーカスレベルシフト と捉えたほうがより適確で、応用範囲も広くなる。

さて、私は内省で起こりそうなことについて話しています。それは粗く鈍い肉体から抜け出ることを意味しているのでしょうか? また、それは「体外離脱」(エクソソマトシス/exosomatosis)、すなわち肉体からの離脱体験(OBE)なのでしょうか? 答えはイエスでもあり、ノーでもあります。なぜなら、あなたがこれらすべての力を開拓できた時、それを行うために、意識を拡張したり自分自身でそこに行ったりなどいろいろな方法があることを知るからです。

だから、私は観察という言葉を使います。すなわち、魂の神聖なる力(東洋哲学では決して使われない表現)によって、あなたは真理を見つけることになります。そして、特別な努力なしにあなたの自己も発見することになります。それは、この物質界で意識的に自己意識 の段階までは行っていません)生きるだけでまた同時にサイキカル界でも意識的に生きるだけでよいのです。あなたにとって、サイキカル界とはあなたの家の中の隣の部屋のようなものだからです。

「わたしの父の家には住む所がたくさんある。……あなたがたのために場所を用意しに行く……」(Noel註:ヨハネ福音書14章 2節)とキリストであるジョシュアイマヌエルは述べました。彼は “場所” と言いましたが、それは私たちが生命現象として一時的に現われてきている存在、すなわち人間として生きるための場所が必要だと言うことを意味しているのでしょうか? お分かりのように、私たちはまだ「人間として、私たちは何者なのであろうか?」という問いにこだわっています。場所はまだ必要なのでしょうか? 場所において生きるという感覚は、物質界にあるものなのです。それはサイキカル界にもありますが、しかし異なったものとなります。それは物質界での生き方とそんなに大きく異なっていません。なぜなら、その世界は四次元の世界だからです。

そして、ノエティカル界での生活における場所の観念は、大きく異なってきます。その違いとは何でしょうか? それは空間(場所ではありません)と時間の観念になります。これらの世界の間での違いでしょうか? あるいは物事の捉え方に、違いがあるのでしょうか? それはあなたがその世界で生活を始める時に分かることなのです。両方とも可能性があると言えるでしょう。あなたが知らなくてはならないことは、“いつ” そして “どこで” ということです。それは簡単でしょうか? もちろん、あなたがこれらの世界で意識的に生きる状態に到達すれば、可能なことなのです。

「真理の言葉」221‐223ページ、一部の太字化はNoelが実施

千里の道も一歩から!

まずは、物質界において 意識的に生きることから始めよう。“意識的” とは “本能的” や “潜在意識的” ではなく、“自己意識” に……ということ。人間自己意識は、花子や太郎などの一時的パーソナリティーの属性ではなく、真実の自己わたしはあるI am)の属性なのだ。

このように、あなたは今「自己意識」の中で調和していきます。そうすると、あなたは真実の自己が何であるか、あなたが何者であるかを理解することができるのです。それから、あなたは自分がであることを理解します。あなたや私たちすべてが例外なく、「エゴ永遠の存在」としてなのです。私たちは一人残さずアラハ(Noel註:アラム語 で神のこと)につながるなのです。

さて、このように感じ、解り、存在する状態は表現できないほど大変にすばらしいことです。しかし、私たちはアラハ、あるいは 存在の世界 におけるの現れでである ロゴスワンネスに入ったのでしょうか? いいえ、あなたはまだ、「エゴとしての自己」の中に「エゴとしての自己」を花開かせなくてはなりません。「エゴとしての自己」は人間としてのあなたのものでしょうか? 「エゴとしての自己」は、人間としてのあなたのものでしょうか? はい、そうです。なぜなら、人間として自己を現しているのがエゴとしての自己」だからです。そして、それは神聖なる人の光なのです。キリストであるジョシュアイマヌエルは、受肉することにより自身を人間として表され、人に栄誉を与えられました。そして、彼ご自信を「人の子」と呼ばれたのです。

このために、私たち一人ひとりが「人の子」であることは、私たちの授かりものなのです。そうであれば、私たちは今、ある種の 超自己意識 を育てることができないのでしょうか? それにより、「永遠の存在」としての私たち自身を感じ、存在し、そのように生き、表すことができないのでしょうか? それはできないのです。何故かと言えば、私たちは常に自分自身を「エゴとしての永遠の存在」として表すことになるからです。

一旦自分の自己人間として表せば、私たちは常に神である光の中人間化された自己であり続けるのです。私はそれを超えた個人的な経験を持っていませんので、それ以上詳しくは述べようとは思いません。しかし、更に統治することはできるでしょう。しかし例えそうしても、私たちの最愛の存在であるロゴスの腕の中に、なぜ留まってはいけないのでしょうか? 絶対無限の存在性 がどのような状態なのかを誰もあなたに話すことなどできません

「真理の言葉」224‐225ページ、一部の太字化はNoelが実施

なにが真実か? 経験することによって学んでゆきたい。