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【ダスカロスの教えに学ぶ13】エゴイズムについて(ハラランボス氏の著書より)/キリストの磔刑の意味


真理を学ぶと、痛みを伴う経験が不要になる

今回はハラランボス氏の著書を教科書にして、エゴイズムの性質とそのメカニズムについて復習しよう。

エゴイズムの恐ろしさは、たとえ言動にしなくとも、誰かが苦しんだり、困ったりする状況をイメージするだけで、そのイメージが 欲望-思考型エレメンタル となり、何らかの形でじぶんと相手を傷つけてしまうことにある。

イエスキリスト悪魔(エゴイズム)の誘惑に屈しなかったが(新約マタイ4章1‐11)、ごく普通の人間がイエスのように 神聖なる法則 に完全に則って正しく考えるのはひじょうに難しい……なので、人間は転生を繰り返し、カルマの鞭 を受けながら、思考と感情のマスターとなるための勉強をするのである。

カルマは私たちの残っている勉強です。その勉強をするにはいろいろな方法があります。私たちは毎日、家族と生活し、仕事をし、いろいろなことを経験しながら勉強していきます。真理一つですが、そこにたどり着くたくさんあり、一生懸命やればどんな道を通っても、必ず真理に行き着くことができます。なぜなら、理論(セオリー)として得た知識を毎日の生活で実践(プラクティス)するからです。理論を実践することはとても大事なことです。正しい考え方をして得た理論は、日常生活で使わないと価値がありません。正しい考え方をして、理論と実践が一つになると、自分の未来を変えることができ、幸せな人生を送ることができます。

真理を学ぶには、グルが必要だという人がいますが、人生こそ最高のグルなのです。人生はどんなグルよりも私たちの面倒を見てくれます。そして、一つ終わると必ず次のレッスンを用意してくれます。ですから毎日、自分にとって嫌なことやしたくないことが出てきますが、その嫌なことこそ、私たちが学ばなくてはいけない次のレッスンなのです。

人生というグルは朝から晩までいつも上から私たちを見守り、「次のレッスンはこれですよ」と教えてくれます。こんなに愛情を持ったグルはほかにいません。一つのレッスンを覚えるまで、繰り返し同じ問題が現れてきますが、一度覚えてしまうと、二度と同じ問題で悩むことはなくなります。そしてまた、人生のグル次のレッスンを私たちに教えてくれます。私たちは、マインド正しく使うことができないので、こういう痛みを伴った経験をしないと成長できません。しかし痛みというのも裏から見ると素晴らしい助けなのです。そういうつらい経験をしながら、私たちは少しずつ目を覚まして体で覚えながら勉強していきます。

「私は何のために生きているのか?」198-199ページ
太字化はNoelが実施

↑ このように、通常はカルマの鞭によって学ぶのであるが、を通じて真理を学び、痛みを伴う経験を持たないことも可能なのである。が、真理の教えを聞いても、素直に受け入れられないひとが多いのも事実、、、

ある者は パウロ(Noel註:ユダヤ名サウロ、サウロの回心 で知られる福音伝道者)の言うことを受けいれ、ある者は信じようともしなかった。

互に意見が合わなくて、みんなの者が帰ろうとしていた時、パウロはひとこと述べて言った、「聖霊はよくも 預言者イザヤ によって、あなたがたの先祖に語ったものである。『この民に行って言え、/あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍くなり、/その耳は聞えにくく、/その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、/耳で聞かず、/心で悟らず、悔い改めて/いやされることがないためである』。そこで、あなたがたは知っておくがよい。神のこの救の言葉は異邦人に送られたのだ彼らはこれに聞きしたがうであろう」。

新約聖書、使徒言行録28章 24‐28、太字化はNoelが実施

真理の教えは、最高にぜいたくな勉強なのだ。

今、私たちが学んでいるエソテリックティーチング痛みを必要としないいちばん良い方法です。これはとてもぜいたくな勉強です。なぜなら、自分の力で独りでも勉強を続けることができるからです。勉強しながら、私たちはだんだん正しく考えることができるようになります。人生というグルがいちばん望んでいるのは、私たちがマインド正しく使って真理を理解することです。

わたしたちは毎日、ほとんど眠っているような状態で生きているので、ある日、突然大きな問題事故が起きると、パニックを起こします。しかし、その時こそ、人間は目が覚めて、やっと頭を使うようになるのです。誰でも、すべてのことがうまくいって何も心配事がないと、頭を使わなくなり、もっと眠ってしまいます。起こしてくれるものがないと、永遠に眠ったままかもしれません。

真理の教えを理解するのは個人の責任です。この勉強は深くなればなるほど、いろいろなことが見えてきます。結局、この人生は勉強するしかありません。というより実は、すでに知っていること思い出していくのです。なぜなら、真理自分の外ではなく自分の内にあるからです。天国も自分の中にあります。誰でも、ただ忘れているだけで、本当はどんな深い真理でもすでに知っているのです。勉強していくにつれて、だんだん思い出していきます。

では、なぜ私たちは真理を思い出さないのでしょうか? それは私たちにエゴイズムがあり、それが邪魔をしているのです。エゴイズムというのは何百年、何千年かけて、私たちが 現在のパーソナリティ としてつくった、欲望思考型エレメンタル 集まりです。エゴイズムというのは、大きなのようなもので、少しでも触れると、すごく痛がりすぐ感情を害し何でも誤解し攻撃してきます。

「私は何のために生きているのか?」199‐200ページ
太字化はNoelが実施

現在のパーソナリティー に巣食うエゴイズム……それを「お前はわたしではない」といって追い出し、ほんとうのじぶんを思い出してゆくのは、他でもないじぶん自身の責任であって、他の誰かに肩代わりしてもらうことはできない。

エゴイズムの性質とメカニズム

ひじょうに厄介で狡猾なエゴイズム(欲望-思考型エレメンタル)であるが、その性質メカニズムについて理解すれば対策しやすくなる。

私たちは、エゴイズム性質や、私たちをだますメカニズム理解すれば、その活動をやめさせることができます。エゴイズムの働きにはメカニズムがあり、次の5つ性質があります。

1つ目は、自分のものにしたいという「所有欲」。

2つ目は、自分が手に入れたものや自分の良い部分を人に見せたいという、「自己顕示欲」です。人はなぜ自慢したがるのでしょうか? その理由は憧れが欲しく、自分が他人より優れていると認めてもらいたいからです。有名になって皆から憧れられると、とても満足します。自分は良い人で特別なのだと思って満足するのですが、このような満足感は鎮痛剤と同じで、一時的な薬です。やがて、お金や家、叶えた名声がなくなると、また元のように不満や不安が出てきます。

3つ目のエゴイズムは、「支配欲」です。エゴイズムは次元爆弾のようなもので、爆発を止めるためには、コードを切らなくてはいけないのですが、切り方を間違えると爆発します。しかし、この次元爆弾もメカニズムを勉強すれば、そのコードの切り方がわかります。爆発するいちばんの原因は怒りです。なぜ人間は怒るのかを調べると、その裏には不満や恐怖が隠れています。自分が望んでいたように相手がしてくれないと怒ります。自分の意見を通して周りを支配しようとしますが、誰かに反対されると怒ります。すべてをコントロールできると満足します。これが「支配欲」の性質です。家族の場合も同じで、両親は子どもを支配したがり、子どもが言うことを聞かなかったり、自分の望むようにしないとすぐ怒ります。怒りの裏には恐怖があります。

4つ目の性質は、「間違った解釈」をすることです。エゴイズムは正しい考え方ができませんが、自分の欲望を叶えるためには、とても賢いのです。しかし、判断能力はありません。

5つ目の性質は、「成功欲」です。何々になりたいという願望です。しかしどんなエゴイズムでも、その裏に恐怖が隠れています。これがエゴイズムのメカニズムです。「本当の自己充足」の状態になれば、孤独や恐怖を感じることはなく、お金があってもなくても平気ですから、内面の自己充足を手に入れなければいけません。

「私は何のために生きているのか?」324ページ
太字化はNoelが実施

現在のパーソナリティー に染みついたエゴイズムの汚れを落としてゆくと、もとの美しい着物…… 永遠のパーソナリティー という 自己性 がみえてくる。それは 自己認識 を包む、すばらしい真実の衣装なのだ。

私たちが、現在のパーソナリティから、今まで持っていたあらゆる欲望すべて取り除いたら、後に何が残るのでしょうか? 「自分自身」です。自己充足 を持っていて、何も必要としません。私たちには、いろいろなものが加わって自分があるという意識がありますが、実は反対です。全部手放すと本当の自分が現れてくるのです。

しかし、この「手放す」ことを私たちはとても恐れています。自分の家族を手放すとは、どういうことでしょうか? 手放すというのは、自分の母親、子どもを愛さなくなるという意味ではありません。家族に対する執着手放したら、家族をもっと心から愛することになります。無条件の愛です。手放すと恐怖から自由になるので、本当の自分が見えてきます。しかし、この世界のお金や物にプライオリティがあると、執着を手放すことができず、自由になれません。

この世界で、自由になりたくない人は一人もいません。皆自由になりたいのですが、その方法がわからないのです。そして間違えた方法を選んで、その結果、自分の欲望の奴隷、物質の奴隷になってしまいます。自由になるには、考え方を直さないといけません。

考え方を正しく直すと自由になる」のです。考え方を直すと、今まで持っていた強い欲望一瞬でなくなることもあります。それらの欲望に対する興味がなくなるので、エレメンタルはもう眠ってしまい、影響されなくなります。

真理の勉強をしていくと、何が大事なのかわかるようになります。本当大事なことは、「自分の成長」しかありません。なぜなら、私たちはそのために生きているのであって、成長しなくてはいけないのではなく、成長するのが自然なのです。

成長していくと、私たちは本当の喜びを感じることができます。自分は正しく生きているという気持ちがあるので、毎日が楽しく、何か失敗しても気にしなくなり、恐れや不安がなくなります。

一つだけ許されている恐怖があります。怠けて成長しない時に、「成長していないと感じる恐怖」です。キリスト教でも仏教でも、神を畏れなさいと言いますが、神は無限の愛ですから、神を畏れることよりも、神とコンタクトを取りたいという願望の方が良いことです。それが力になって、私たちを成長させてくれます。

内省 の中で「すべきことで、しなかったこと」というのがある のですが、今日すべきことをしなかったということは、とても残念ですから、そうならないように「小さな不安」を持ちましょう。

成長したいという願望はとても良いものです。絶対無限の存在 は、私たちが成長して テオーシス に入ることを強く望んでいます。このロゴスの願望は、とても大きいのです。絶対無限の存在は、私たちがただ痛むことを望んでいません。私たちの痛みは絶対無限の存在の痛みでもあるのです。彼の望みは、私たち全員が本当に幸せになること、そしてまた戻ってくることです。

「私は何のために生きているのか?」312‐313ページ
太字化はNoelが実施

エゴイズムのないひとは傷つかない

現在のパーソナリティは、私たちが今まで生きて経験してきたすべての結果です。そして、その中にエゴイズムが入っています。現在のパーソナリティには良い部分もたくさんありますが、エゴイズムはいつも自己中心的で、良いものは一つもありません。

エゴイズムは、私たちがつくったものです。一般の人の現在のパーソナリティは、90%以上エゴイズムに支配されているので、本当の自分自分のエゴイズム見分けることができません。怒っている時、誰が怒っているのでしょうか? 皆、自分だと思っています。でも、本当はエゴイズムが怒っているのです。

このように私たちはエゴイズム自分区別できないので、だまされて、怒ったり傷ついたりします。エゴイズムというのはそういう意味でとても賢く、どちらが本当の自分なのかわからなくなるほど、私たちを上手にあやつっています。私たちが痛んでいる時、誰が痛んでいるのでしょうか? 実はエゴイズムがそう感じているのです。

では、エゴイズムのない人はどうなのでしょうか? もちろん現在のパーソナリティを持っていますが、その人はほかの人の無知を見ると悲しむけれど、自分の中に心配というものが全く存在していません。そして、人の過ち理解して許すことができます。また人から何をされても、何を言われても気にかけず平和な気持ちでいられます。キリストも私たちの苦しみを見ると、泣いていたのです。人間の無知というものは悲しいものです。人間同士の争い、国と国との戦争も全く同じで、すべてエゴイズム原因です。

全くエゴイズムのない人は、何を言われても何をされても傷つくことはありません。エゴイズムがなくなると、現在のパーソナリティ永遠のパーソナリティ近づいて一つになります

「私は何のために生きているのか?」200‐202ページ
太字化はNoelが実施

心配したり、傷ついたりするのは、ほんとうのじぶんではなくエゴイズム……なので、心配したり、感情的に傷ついたりする瞬間は軌道修正の絶好のチャンスといえる。欲望-思考型エレメンタル が生じた原因を突き止め、それを正しく 思考-欲望型エレメンタル置き換えてゆく。そうすると、確実に嫌なことが減る……が、人生というグルは手を抜かない。前よりもほんのちょっとレベルの高いレッスンをすかさず与えてくる。

すべてを最愛にゆだね、地道に少しずつ成長してゆきたい。

本当の愛というのは条件付きではなく、無条件の愛です。どんな人でも同じように愛することができる、大きな愛の袋の中に誰でも差別なく入れること、それが本当の愛です。

人を選ばない、差別しない、批判しない、それが本当の謙虚さとであり、私たち真理の探究者の目標です。それができないと本当のサイコセラピストにはなれません。真理の探究者は、自分の成長最優先にします。それはエゴイズムからではなく、本当に自分を愛するからです。自分を愛すれば、相手も愛することができます。自分を愛せなければ、相手も愛することができない。自分を愛すれば、絶対無限の存在 も愛することができる。絶対無限の存在を愛することができなかったら、ほかの人を愛することもできません。真理を愛さなければ成長できない。真理を愛さなければ自分も愛せない。すべて同じです。絶対無限の存在自分真理ほかの人たち、これらは皆一つであることを忘れてはいけません。

「私は何のために生きているのか?」451ページ
太字化はNoelが実施

キリストの磔刑の意味

次回は、がテーマの「真理の言葉」第5章を取り上げるが、ダスカロスの「ジョシュア・イマヌエル キリスト 地上での生涯とその教え」を何となく読み始めてしまった。

読み飛ばせないすごい本なので、なかなかページが進まない……真理真実本物がここにあり、さいしょの数ページで新たな気づきを得た。有名な「父よ、できることならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」というイエスの言葉の意味……それがわかって心に刺さった。

それから、イエスは彼らと一緒に、ゲツセマネ という所へ行かれた。そして弟子たちに言われた、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここにすわっていなさい」。

そして ペテロ と ゼベダイの子ふたり とを連れて行かれたが、悲しみを催しまた悩みはじめられた。そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。

それから、弟子たちの所にきてごらんになると、彼らが眠っていたので、ペテロに言われた、「あなたがたはそんなに、ひと時もわたしと一緒に目をさましていることが、できなかったのか。誘惑に陥らないように目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」。

また二度目に行って、祈って言われた、「わが父よこの杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように」。またきてごらんになると、彼らはまた眠っていた。その目が重くなっていたのである。それで彼らをそのままにして、また行って、三度目に同じ言葉で祈られた

それから弟子たちの所に帰ってきて、言われた、「まだ眠っているのか、休んでいるのか。見よ、時が迫った。人の子罪人らの手に渡されるのだ。立て、さあ行こう。見よ、わたしを裏切る者が近づいてきた」。

新約聖書、マタイによる福音書26章 38‐46節
太字化はNoelが実施

キリスト磔刑は、こちらの記事に書いたこと だけではなく、重層的な深い教えになっている……(エゴイズム)のないイエスが何故? 罪人として多大な苦痛汚辱を味わうことになったのか? 人類の集合意識に残酷で血なまぐさい磔刑刻印したのか?……その疑問が解けたかもしれない。

イエスは、じぶんの死と復活の後に起きることを知っていたのだ。

3度も忠告したにもかかわらず眠っていた弟子たちの姿から、人類意識の眠りの深さを知り、真理理解しない人々イエスにおいて為すだろう残虐な行為避けられない杯であることを予見し、天なる父に「御心のままに」といって罪の十字架を背負ったのだ。

イエスのもたらした真理は、エゴイズムをより黒く、はっきりと際立たせてしまうものであった……が、その光がなければ地上は暗いままだったろう。流された血よりも多くのものが実り、栄えている。イエスはすべてのひとのために真理を説き、その言葉は地球の隅々まで響き渡り、極東アジアに生まれたわたしのところにも届いたのだ。

そのことを心から喜びたい。そして、イエスと共に目覚めていたいと願う。