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【ダスカロスの教えに学ぶ8】十字架を背負う/神聖なる慈悲(「真理の言葉」第1章より)

内省」によって正しく考え、「観察力」と「集中力」を身につけて内なる自己 へと入ってゆくと、肉体の中で働いている 大天使たち 意識的コンタクトがとれるようになり、真実自己を見出すことができるようになる……とダスカロスはいう。

観察からの学びにより、マインドを適切に使うことを知り、私たちは人間の肉体創造についての真実を知ることになります。もし、私たちが「観察の仕方」と「学び方」を訓練して、本当の「集中力」を身につけて、「内なる自己」に入っていけば、時間の経過と共に、肉体の中で働いてくれている大天使たちと意識的なコンタクトが取れるようになり、真実の私たち自身を見つけ出すことになるのです。

ーーー(中略)ーーー

私たちの肉体の中で、大天使たちはフィーリングと感情を持っていますが、人間が持つフィーリングや感情とは異なります。それらの異なっています。彼らは憎しみを持つでしょうか? いいえ、持ちません。愛はどうでしょうか? もちろん持っていますが、反感や不満のフィーリングをいつも心の中に宿らせる人間からは、彼らを理解することはかなり困難なことでしょう。私も彼らののフィーリングへ アチューンメント できるようになるのに苦労しました。なぜかと言うと、それにはかなりの努力が必要で、私自身の中に誰に対しても少しの不満もないことを確信できる状態にならなくてはならないからです。

ーーー(中略)ーーー

真理探究者の役割は、生命に関する真理と彼ら自身のに関する真理を見つけ出すことで、自然の最も低い領域で、彼らが誰であるか、そして自然の中でどのように振る舞うべきかを探し出すことです。それは、意識的に生きることであり、さらに自然という存在の世界の中の高次元の領域で「自己意識」を持って生きることを意味しているのです。

「エソテリック・ティーチング」22‐25ページ
一部の太字化はNoelが実施

自然に映し出された 絶対存在意志の喜び ……そこに、わたし自身の 永遠のパーソナリティー が透けてみえる。だから、晩年のライフワーク として、「水源の森と海をつなぐひとになろう」と思ったのだろう。は、絶対無限の存在 から放射される 全なる愛、全なる智恵、全なる力 の象徴……子供の頃、で遊んでいるとフッと源流をみたくなり、上流に向かって歩きはじめたことが何度もある。

そのは、つねにと共にあった……わたしは自然創造性に触れることで、息苦しい 現在のパーソナリティー を 永遠のパーソナリティー の中に解放してきた。

私が既に話したように、あなた方の周りにある鉱物植物動物界生命現象観察研究することにより、あなたは「全なる智恵」を、感受性と感覚能力と本能として発見することになります。マインドはこの感受性と感覚能力と本能にのみ顕在化されています。これらの生命現象では、私たちが “意識的思考” と呼んでいるものを育てることはできないのです。従って、彼らは自己表現しません。なぜなら、牛や犬は決して「自分は……」(I am)とは言いません。「アイネス」(I-ness)は、私たちが「自己性」と呼んでいるもので、神の “エゴ” なのです。永遠の存在の中に、人間の「アイネス」と、大天使の「アイネス」が位置づけられています。これにより、人間も大天使もすべて永遠の存在であり、なのです。

私たちの周りにいるすべての動物は、一時的な存在です。彼らは永遠の存在ではなく、魂でもありません。私たちは彼らの生き方に違いを見ることができます。彼らの生き方は本能的であり、それ以外の何物でもありません。たとえ「全なる智恵」においても、本能は本能なのです。しかし、「全なる智恵」は、正しい方法、あるいは誤った方法であっても、私たち人間マインドを利用する自由を与えています。如何なる動物も、正しい方法でも、あるいは誤った方法でもマインドを利用することができません。

「エソテリック・ティーチング」25ページ
一部の太字化はNoelが実施

鉱物植物動物は、大天使や人間のような永遠の存在ではない。すべて一時的な存在であり、絶対存在と永遠の存在たち によって創造されたものなのだ。大天使及び彼らのエレメンタルである天使と自然霊は マインド を使い、全なる智恵 を「鉱物、植物、動物」の感受性感覚能力本能として顕在化させている。

人間大天使はどちらも 聖なるモナド がルーツであるが、マインド使い方に大きな相違がある。

人間と私たちの兄弟姉妹である大天使たちとの違いは、マインド利用方法です。私たち人間はマインドを正しい方法でも、誤った方法でも使えますが、しばしば誤った方法で使っています。一方、大天使は彼ら自身から放射されるマインドを、常に正しい方法で使っています。彼らは愛を表現するために、それを創造と維持と愛のために使います。

もう一つの違いは、マインドの源です。私たちはマインドを借りています。言い換えると、本来私たちが「思考するパーソナリティー」として使うように、神によって与えられたものです。従って、私たちのパーソナリティーからマインドは放射されません。一方、大天使は彼ら自身のマインドを放射します。しかし、人間でも本能をコントロールし、「潜在意識」を完全に理解し、自己のパーソナリティーを浄化することにより、“意識” を習得し、「自己意識」を得ることができれば、言い換えると自己の本質としての最も高いレベルに到達すれば、人間として私たちもマインドを放射できるようになります。

このように、人間もマインド放射できますが、あくまでもそのような高次意識レベルに到達してからになります。そのようなレベル以前では、私たちはマインドを求めなくてはならず、それが日々の糧として、私たちに与えられるものなのです。

以上から、大天使たちが彼ら自身から放射するマインド超素材を使って、最も賢くあらゆる宇宙生命現象創造しているかを理解できたと思います。また、私たち人間は、狭い心の「時間-場所のパーソナリティー」であり、私たち自身がつくり出した「人-悪魔」エレメンタル と呼ばれる暗いベールに覆い包まれていることも理解できたと思います。

絶対無限の存在は、ご自身の御恵みの下で、日々、一瞬一瞬、私たちに一定量のマインド超素材を与えてくれています。これにより、私たち「 としての自己」は存在の世界において狭量なパーソナリティーとして生きていくことができるのです。私たちが受け取るマインドの量は、24時間で一定の最大値になります。その量を100単位と仮定しましょう。その内40単位は、聖なる大天使たちが肉体を創造し維持するために使われます。あと40単位は、生活の手段として使われます。例えば、考えること、動くこと、場所を移動することなどのために、おそらく生活の仕方に応じて マインドバイタリティー を消費します。そして、20単位が、私たちが好きなように使う為に残されています。これが現在の「時間-場所」の人間に与えられた神の恩寵なのです。

「真理の言葉」25‐27ページ、一部の太字化はNoelが実施

大天使はマインドを正しく使うが、人間はマインドを誤用する。

人間のパーソナリティーが「マインドの誤用」という エゴイズム に支配されている限り、大天使のように宇宙や生命現象の創造を担うことは許されない。そして、「マインドの誤用」の代償はすべて、誤用した当人支払うことになっている。そうやって、宇宙はバランスを保っているのだ。

自然の法則(Noel注:神聖なる法則 のこと)を犯したりすると罪はあるのでしょうか? 大天使は咎めるのでしょうか? いいえ、何もありません。たとえ私たちが怒りや他のネガティブエレメンタルで私たち自身を傷つけたような場合でも、大天使たちは私たちの健康を治し回復させようとします。では、私たちの犯したに対して、誰か他に罰する人はいるのでしょうか? もちろんいます。それは私たち自身です。私たちは自分の行動に応じて、私たち自身に起因する報いを得ることになるのです。このことから私たちが知らなくてはならないことは、私たちの中に抱えているこれらすべてのエレメンタルは、病の原因になるということです。

エレメンタル状態に対する責任は私たちにあります。大天使たちは常に私たちの病や状態を改善しようとしていますが、私たちが彼らと協力しないのです。もし病気になれば、私たちに原因があります。その原因は、現在の行為からのものでしょうか? あるいは、カルマなのでしょうか? それはカルマである場合もあります。しかし、もしそうであっても、なぜ私たちはそのような環境の重荷の下にいるのでしょうか? 観察正しい思考を使うことによって、病の原因を見つけ出し、状態を改善しようとする考えになぜならないのでしょうか?

「真理の言葉」28ページ、一部の太字化はNoelが実施

原因と結果の法則(カルマ)について、ハラランボス・ランバート氏は以下のように説明する。

永遠のパーソナリティー現在のパーソナリティーの間の距離が、カルマ大きさで、私たちの残っているレッスンです。石を上に投げると、必ず下に落ちてきます。これは自然の法則です。宇宙の中には完璧なるハーモニーがあり、何かの力(ポジティブなものでもネガティブなものでも)が触れると、そのハーモニーが動きます。静止した水面に小さな石が落ちると水面が波立ち、そのあと、必ず元の状態戻ろうとします。

何かネガティブなことをすると、それと同じ量のネガティブなものが自分に戻ってきます。ポジティブなことに関しても同じことが起きます。これは自然な法則で、天罰ではありません。原因があって結果が来るのです。自分で石を投げて、自分の頭の上に落ちてケガをしたら、誰のせいでしょう? 私たちは毎日、いろいろ好きなことをして生きていますが、私たちがすることはどんな小さなことでも、バランスをとるために、それが自分に返ってくるのです。

原因と結果の法則(カルマ)によってできた負債を返済するには、4つ方法があります。1つ目は長い期間、たとえば何百年かかけて、その人が許容できる範囲で少しずつ支払う方法です。2番目はその場で支払う方法で、たとえば突然の事故に遭ったり、病気などになったりします。3番目は良いことをして支払う方法です。たとえば医者になって、自分が過去に奪った命を、今たくさんの人の命を救うことで返す方法です。4番目はほかの人のために、その人のカルマを共有する方法です。

いろいろな払い方がありますが、ネガティブカルマが、時に解消されることがあります。これは神聖なる慈悲によるものです。この慈悲がどのように働くのかは、人間には理解できません。しかし、絶対無限の存在は私たちが自分のレッスンを覚えたら、その残りを許してくれることがあるのです。

キリストは、負債(カルマ)と勉強を、「十字架」という言葉で表しました。「私を信じる人は、自分の十字架を背負って私の後についてきなさい」と言いました。人間はカルマから逃げることはできません。自分十字架を背負って、真理を歩いていくのです。

私たちがいま経験しているつらいこと、苦しいことは私たちが覚えなければいけないレッスンです。しかし、本当の正しい考え方が少しでもできるようになると、私たちが何百年にもわたって抱えていた、そして、これから何百年も続くであろう重い十字架軽くすることができます。そして、自分の人生シナリオライターになることもできます。私たちにとって、これ以上素晴らしい、幸せなことがほかにあるでしょうか?

さあ、私たちは何を迷っているのでしょうか? これ以上、時間を無駄にしないようにしましょう!

「私は何のために生きているのか?」211-213ページ
太字化はNoelが実施

「原因と結果の法則」は基本ひじょうに正確に働く……が、時に 神聖なる慈悲 によって、背負いきれないのカルマが解消されることがある。イエスが背負った十字架は、地球人類が個人として、集団として、民族や国家として、地球全体として背負ったエゴイズムのカルマと、エゴイズムから抜け出す学びの象徴といえる。

イエスは、「じぶんの十字架を背負って、わたしについてきなさい」といった。

ジョシュアイマヌエル(Noel註:イエス・キリスト)はから直接に人間化され、ご自身の「ワンネス」から離脱することなく物質界に降りてこられました。真理について証言し立証しました。私たちが物質界で生きていくために必要なものは全て与えられています。私たちの周りの自然観察することによって、ここが天国であることが分かります。地球上にいるが、ここを地獄のように変えてしまいました。言い換えると、私たち自身が私たちの周辺に自身の硬い殻のような地獄をつくり上げ、その中に住んでいるのです。

全なる智恵に従って創造されたもの、今創造されているもの、これから創造されるものは、すべて善性のものです。ですから、私たちはこの偉大な真理を “観察” と “正しい思考” を使ってよく認識しなくてはならなく、この世界における私たちの位置付けを見つけ出すこと、特に狭量な「時間-場所のパーソナリティー」の位置付けを見つけ出すことが極めて重要となります。私たちは自分自身を “理性的な領域” にしなくてはならず、神聖なる贈り物であるマインドを浪費することなく、また誤用しないように注意しなくてはなりません。なぜなら、そのマインドは考えることや思考や感情の本質だからです。よく調べること、観察すること、理解すること、そしてその結果として決断すること、また状況をコントロールすることができることは、大きな前進です。

私は私である」(I am I)で、私は「神の子」であり、「神の聖霊」です。この時に、私たちは、「人-悪魔」であるパーソナリティーのエゴイズムが支配する狭量な「時間-場所のパーソナリティー」から自分自身を分離することができるのです。

私たちはパーソナリティーのエゴイズム十字架に掛けなくてはなりません。そして私たちの親愛なるジョシュアイマヌエルの言葉を引用すると「……あなたが自分の十字架を背負って、私に従わない限り……(Noel補足:マタイによる福音書16章24節の言葉と思うが、原文通りではない)と表現されています。これが意味することは、あなたが「時間-場所の邪悪なエゴイズム」を十字架に掛けない限り、あなた自身の自己である真なる「エゴ」を復活させることは望めないということです。これが最も必要な最初の磔刑です。

シンボルオブライフ」においては、それはハートセンターに向かい、サイキカル体と向き合う感情領域(太陽神経叢)のちょうど上にあたり、見えてくる最初の十字架になります。

もう一度、最愛なる人の言葉を確認しましょう。「わたしについて来たい者は自分を捨て自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」。これには偉大な意味が含まれています。

さまざまな心配事問題に心が折れそうになったときは、祈りが役に立つ。

心配をなくすための祈り

真理の探究者の一つのステップは、心配をなくすことです。毎日いろいろな問題が現れてきますが、それらは自分の智恵と能力によって解決することができます。本当の真理の探究者は、自分の人生(家族、恋愛、仕事、お金など)をすべて秩序正しくコントロールできるのです。

しかし突然、思いもよらない問題が現れることがあります。もしそれが自分の手に負えないものであれば、その問題を紙に書いてどこか神聖な場所において、次のような祈りをしてください。

あなたは「天を認めればあとのことはすべて与えられる」と言われました。私は、自分の成長最優先にすることを約束します。この問題は私の力には負えないものなので、あなたの元にあずけます。いつか正しい時期に、この問題をあなたが解決してくださると信じています。そして私があなたを信頼しているという証拠に、私はこれからこの問題に関して一切心配しません御心なされますように 

「私は何のために生きているのか?」160ページ
太字化はNoelが実施

カルマに怯むことはない。カルマはレッスンを学び、正しく考えることができるようになるためにある。人間はいつか必ず自身のエゴイズム十字架に掛け、完全なる勝利と自由を得る……それが自然な在り様なのだ。