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【ダスカロスの教えに学ぶ6】観察力/エレメンタル/聖霊とロゴス(「真理の言葉」第1章より)


観察力

人間大天使本質としての「霊-エゴ」は、“観察力 なのだそうだ。

私たちの本質としての「エゴ」と、大天使の本質としての「エゴ」は、“観察力” であると言えます。この “観察力” が何を意味しているかを説明することは、かなり困難です。それは、完全な集中力であり、同時に完全に知ることを意味しますが、適切に表現できる言葉がありません。ですから、それを “観察力” と呼びましょう。すなわち、私たちの本質も彼らの本質も、私たちが “観察力” と呼ぶ何かなのです。

人間として私たちは、本質の中に “観察力” を持っています。しかし、私たちはそれを表現しなくてはなりません。そして、私たちの中に「内なる真実」の本質を統治できたときに初めて、それを表現できるのです。

大天使たちは既にそれを知っています。彼らはその完全な “観察力” を使って、如何なる誤りもなく全なる智恵を生み出し表現します。聖なる大天使たちは、彼らの仕事で如何なる誤りも起こしません。なぜなら、それが彼らの本質だからです。ここでもう一度、これらの生命の状態、特に大天使に関して表現するために、言葉は充分ではないことを述べておきます。

「真理の言葉」16-17ページ、一部の太字化はNoelが実施

神聖なる本質の一部である “観察力” とは、「完全な集中力」であると同時に「完全に知ること」……で、その “観察力” によって大天使たちは 全なる智恵 を発揮するのだという。一方、人間が “観察力” を発揮するには内なる真実の本質……つまり、聖なるモナド の投影である 自己認識-魂 としての自己 に目覚め、それを統治することが必要になってくる。

内省や瞑想によって、意識を “自己意識現在のパーソナリティー が 永遠のパーソナリティー とつながった状態)にまで引き上げると、大天使 のエレメンタルである天使自然霊とコミュニケーションしたり、エレメンタル を “見る” ことができるようになる……とのことであるが、この “見る” は視覚だけでなく、直感雰囲気皮膚感覚などによる知覚も含まれると思う。誰かと話していると、相手の意図が太陽神経叢やハートセンターに触れてきたり、ハートと言葉が食い違っていると不快感を覚えたりするのも、エレメンタル見ているといえる。

大天使のエレメンタルである天使自然霊は、さまざまな生命現象の背後で マインド を用いて 全なる智恵 を、「植物界」では感受性、「動物界」では感覚能力本能として表現する……とダスカロスは説明する。

そして、人間本能を持っている。

人間はこの本能を持っています。このことが意味することは、人間が本能的に生きているということです。人間の肉体の中には、本能を超えるものは何もありません。ですから、人間の肉体とあらゆる動物の体は本能で支配されています。では、誰によって、また何によって、本能は支配されているのでしょうか? 

もちろん、それは肉体創造維持している聖なる大天使たちによってです。さらに、人間の肉体は、肉体を創造し維持している「基本元素の大天使」の秩序の下に置かれています。彼らが血液循環をはじめ、あらゆる臓器とそのシステムを管理しています。

「真理の言葉」21‐22ページ、一部の太字化はNoelが実施

肉体は「本能」の支配下にあり、人間の意識は「本能」を支配する側にある。感覚と本能を制し、無自覚な惰性の眠りから目覚め、“自己意識 という宝物庫を啓いて、本質的智恵を引き出せるようになりたい。

エレメンタル

大天使のつくるエレメンタル神聖なる法則 に則り、決して間違いを犯すことはない。が、人間のつくるエレメンタルには2つのタイプがある。

1、「天使」(思考欲望型エレメンタル):理性的な思考によって形づくられたもの。
2、「悪魔」(欲望思考型エレメンタル):低次の欲望エゴイズムによってつくられたもの。

それぞれのエレメンタルの性質について、わかりやすく書いてあるハラランボス氏の著書から引用しよう。

エレメンタルは私たちの思考感情によってつくられ、ポジティブなものとネガティブなものがあります。一度つくられたエレメンタルは一生消えません潜在意識 の中で眠るか、聖書のたとえ話(Noel註:新約マタイ12章 43‐45)のように旅をして戻ってきたり、ほかの人のところに行ったりします。自分がつくったエレメンタルが、人にも影響を与えます。良いエレメンタルは周りにも良い影響を与えますが、悪いエレメンタルは自分だけでなく、家族や周りにもダメージを与えます。

ポジティブ思考欲望型エレメンタルをつくることによって、私たちの潜在意識がきれいになり、人生を正しく生きることができます。ネガティブ欲望思考型エレメンタルには、とても強い力を持っているものもあります。一つのネガティブなエレメンタルが、人の命を奪うこともあります。

同じ波動のエレメンタルは、グループをつくって集まります。たとえばスポーツのエレメンタル、ファッションのエレメンタル、宗教のエレメンタルもあります。自分と同じ波動の人が近づくと、その人のエレメンタルの影響を受けますエレメンタルは私たちの潜在意識の中で眠っていて、いまは興味がないことでも、以前興味があったものが急に目覚めて生き返ってくることもあるので、私たちはいつも気をつけて、自分が毎日つくるたくさんのエレメンタルの性質を観察し良いものを増やすように意識しなくてはいけません。

私たちの現在のパーソナリティーは、潜在意識的に生きていても正しい考え方をしている時があります。もし正しい考え方をしていなければ、この世の中は大変なことになっているはずです。しかし正しい考え方潜在意識的にしているので、今はある程度この社会のバランスがとれているのです。私たちの現在のパーソナリティーは、家族、社会、国、時代によっても変わっていきます。また私たちは、時間と空間の中に生きているので、それによっても毎日変わります。

ですから、ポイントは「どうしたらこの現在のパーソナリティーをコントロールできるか?」、そして「どのように思考型の良いエレメンタルをつくるか?」ということです。なぜなら、私たちの潜在意識の中にはいろいろな 欲望思考型のエレメンタルがいて、私たちの意志が弱いと、それらのエレメンタルが出てきて影響されるからです。

つくられたエレメンタルは、良いものでも悪いものでも、一度つくられるとコンピューターのインプットと同じです。小さなロボットのように、インプットされた目的を実現するために働きだします。

たとえば、新しい車が欲しいと思うと、そのエレメンタルは、それをどう叶えるかと自分で方法を探します。すると一年後、あるいは来世かもしれませんが、いつか必ず望みを叶えることになります。エレメンタルは自分の目的を果たすために、適切な状況が現われるまで何千年も待つこともあります。

初めに引用した、聖書の「エレメンタルが人間から出ていくと、どこか休むところを求めて、水があるところを捜しまわるが、どこにも見つからなかったので戻ってくると、その家は空き家できれいに掃除がしてあった」というのは、潜在意識から一つのエレメンタルが出たときに、空いた場所に波動の高いエレメンタルを入れないとまた戻ってきてしまうということです。

たとえばアルコール依存症の人が、そのエレメンタルから自由になるには、アルコールのエレメンタルの代わりに 思考欲望型の良いエレメンタルを入れないといけません。アルコールの代わりに、もっとレベルの高い 思考欲望型エレメンタルをその場所に入れると、欲望思考型エレメンタルが戻ってきても場所がないので、入ることができません。

エレメンタルは生き物で、つくった人と同じくらいのインテリジェンスを持っています。そこがとても怖いところです。なぜなら、そのエレメンタルはそれをつくった本人と同じ声を持ち同じように考えるので、本人はエレメンタルだと気がつかず、自分の考えだと思ってしまうからです。

何か悲しい出来事があると、人は繰り返しその記憶を呼び出します。誰にでもそんな体験があると思います。何か気に入らないこと、何かとてもつらいことがあると、頭の中から離れず、毎日繰り返し思い出すので、エレメンタルに食べ物与え続けることになり、どんどん強く大きくなっていきます。そしてネガティブなエレメンタルの場合、現在のパーソナリティは、その力に耐えられなくなることもあります。だから私たちは、欲望思考型エレメンタルがどんなに危険かということをよく理解してエネルギーを与えないように意識していないといけません

このメカニズムをよく理解できれば、自分の弱点や欲望をコントロールできるようになります。それがセルフコントロールです。コントロールは 3つの体 に対してします。ノエティカル体から始まり、サイキカル体のコントロールを経て、やっと 思考欲望型エレメンタルをつくれるようになります。

ーーー(中略)ーーー

エレメンタルが恐ろしいのは「考えを持っている」ことで、私たちをだますことができます。たとえば、たばこをやめたい人が、「今日は疲れているから、一本くらい吸ってもいいよ」とエレメンタルに言われて、それは自分の考えだと思ってしまいます。しかし、それを言っているのは自分ではないのです。ですから、どこが自分、どこがエレメンタルなのかという観察をしないといけません。

自分を観察し、そして内省すること。内省は毎晩寝る前にします。なぜなら、その時がエレメンタルが、私たちのエーテルバイタリティもらい戻ってくる時間だからです。しかし、自分を守るためにきちんと内省しているとエレメンタルに影響されることはありません

ハリー・ランバート著「私は何のために生きているのか?」95‐97ページ

さいきんは……つまり、潜在意識的な 体外離脱 ではなく、覚醒意識で自発的に体外離脱することのほうに関心がシフトしているので、就寝前内省 と、波動の高い対象への アチューンメント を心がけている。

聖霊とロゴス

 聖霊 と ロゴス という言葉は「ダスカロスの教え」においてしばしば使われるが、「真理の言葉」にはそれらに関する詳細な説明がほとんどない。なので、スペースを割いて補足しておこう。

ダスカロスは人間の本質(霊-魂-存在)を、両手でつくる三角形のシンボルで説明する。

エソテリック・プラクティス」表紙絵

表紙絵のシンボルについて

は言葉と同じように表現力があります。手で呪いをかけることも、洗礼を授けることもできます。また人を傷つけることも、人を追い払うことも、癒すことも、祝福することもできます。何世紀にもわたって、マスターたち言葉で言い表せない象徴的なことを伝えるために、を使ってきました。キリストであるジョシュアイマヌエルを使って教えを授けていたことも、良く知られています。

表紙絵は、ジョシュアが伝えたシンボルの一つを描いたものです。つなげられた両手の親指は3角形の底辺を、2本の人差し指は残りの2辺を示しています。他の指は少し間を空けて、外に向けて扇状に広がっています。

この(ホワイティッシュ・ゴールドに)輝く完璧な3角形は「エゴ存在としての私たちの----完全で調和にあふれ光を放つ----神聖なる本質を示しています(周囲のカナリアイエローはキリストロゴスの光を、エメラルドグリーンはロゴスの光から放射される癒しのエネルギーを意味している)。

「エソテリック・プラクティス」のそで(表紙を内側に折り込んだ部分)にある解説
太字化はNoelが実施

この3角形は図のように4つの3角形から構成されています。

そのうち3つは上向き、4番目の中央にある3角形は下向きです。1番上の3角形「AB」は神である「絶対存在」(Absolute Beingness)を、左下の3角形「CL」は「キリストロゴス」(Christ Logos)を、右下の3角形「HS」は「聖霊」(Holy Spirit)を表しています。中央にある下向き3角形「SSB」は、時間と場所の世界に降りて行く人間の「存在」(Spirit-Soul-Being)を表わすものであり、それは聖なる三位一体の中にあって、その3面は永遠に守られています。

それでは、表紙絵にある親指と人差し指以外の指は、何を表わしているのでしょうか?

残りの指はそれぞれに、分離の世界 に降りていく私たちを表わしています。まず、人差し指のすぐ隣にある中指は、ノエティカル体ノエティカル界を象徴しています。次の薬指は、サイキカル体サイキカル界を象徴しています。そして、いちばん3角形から離れた小指は、物質としての肉体物質界を象徴しているのです。

私たちが経験する見かけ上の “分離” は、パーソナリティーのエゴイズムによってつくられ、強められた「幻想」です。つまり、全体から分離されたように感じさせているのは、私たちのエゴイズムなのです。

実際には、1本いっぽんの指は離れて見えても、すべてが大元でつながっています。本当はすべてが一体であり、私たちも決して “分離” などしていないのです。

「エソテリック・プラクティス」のそで(表紙を内側に折り込んだ部分)にある解説
太字化はNoelが実施

イエス3角形シンボルは、三位一体である絶対存在聖霊キリストロゴスを視覚的に理解するのにひじょうに役立つ。

聖霊キリストロゴスについて、ダスカロスの説明を聞いてみよう。

絶対存在は、存在する唯一にして真の実在” です。それは真理であり、生命であり、全ての総計です。それは“ワンネスの中にある自己充足性であり、多重性の中の自己充足性です。それは時空間を超越した唯一の神であり、キリストロゴスとして、また聖霊として絶え間なく生じ、そして表現されています

キリストロゴスとして聖霊として、自己充足性多重性を持ち創造的表現を行う絶対存在として、神が存在しない空間は存在しません

絶対存在全なる実在です。そして、私たちはその中に全なる愛を伴う全なる知恵全なる愛を伴う全なる力という、2つの本質を見分けることができます。それが、表現される以前の状態にある、キリストロゴス聖霊なのです。

「エソテリック・ティーチング」33~34ページ

超絶シンプルに要約すると、キリストロゴスは「全なる愛を伴う全なる知恵」、聖霊は「全なる愛を伴う全なる力」……ということになるが、それだけでは言葉足らずなので、もう少し詳しい説明を。

聖霊とは、主であるです。私たちは、聖霊を絶対存在の自己充足の中に権威の状態として、キリストロゴスと共に見出すことができます。また、絶対存在の表現の中創造の力として見出すこともできます。

ワンネス” にして絶対である神が全てです。キリストロゴスであり聖霊である神によって、あらゆる宇宙は創られています。それは、を明示しようという神聖なる意志の結果なのです。このことは、旧約聖書・創世記第1章18節に「昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせられた。神はこれを見て、良しとされた」と書かれています。

聖霊あらゆるところに遍在しています。それは全てを実現させる絶対存在の 法則保存の 原理 です。その本質が生命であるがゆえに、聖霊生命と生命現象の供給者でもあります。と、最も聖なるロゴスと共に、聖霊生命の絶対なる本質と生命現象をコントロールしているのです。

大天使天使神聖なるイデア の表現の中で 全なる智恵 を表そうとする時、素材および超素材として エーテル を使うのですが、このエーテル聖霊による指揮と制御を受け、その支配下にあります。これは、人間のイデア だけの話ではありません。たとえば、調和、働き、組成、分析といった抽象的なイデアを含め、その他のイデアの中にも聖霊は存在しています。

聖霊とその共同の働き手である大天使たちは、生命現象を生み出すために、肉体とその関連世界で全なる智恵超意識を持っています。一つひとつの表現は、ロゴスと聖霊の中で行なわれています。無限の中のどんな部分であれ、そこには必ず聖なるロゴスと聖霊の両方が含まれています。にもかかわらず、それらは分離した神々ではなく、“ワンネス” にして、同じ絶対的な神の顕現なのです。

絶対存在全ての支配者であり、偉大なる父です。私たちの肉体にはハートがあり、それが思考、そして理性キリストロゴス)を表現しています。また、太陽神経叢本能的な智恵聖霊)を与えています。人間ロゴス的であると同時に聖霊的な存在であり、またこのような言い方を超えた存在でもあります。それは絶対存在の中の一つの 聖なるモナド であり、かつて存在しなかった時はありません。聖なるモナドとは、絶対存在の永遠なる本質であり、状態です。

しかし、この事実は テオーシス の後でないと完全に理解することができないでしょう。なぜなら、こうしたことは人間が生命現象の世界でもはや印象というものを受けとらなくなった時、初めて理解できることだからです。

人間は、聖なるモナドの延長線上に位置している、絶対存在の最も価値ある表現の一つです。絶対存在の 神聖なる瞑想 の中に人間のイデアがあり、霊としての聖なるモナドがこのイデアを通過すると、それは 自己認識 となってさまざまな宇宙の中で自身をロゴス的な方法で表現し始めます。

この後、自己認識特定の生命現象を生きるために超物質や物質の低い波動パターンまで降りて来ると、それは聖霊的な表現になってきます。このことは、私たちの物質的な肉体高次元の体も、マインド による聖霊の表現であることを意味しています。聖霊は、全なる愛全なる智恵全なる力を映し出すために、超素材素材を使って完璧な方法で私たちの 3つの体 をつくります。

キリストロゴスはまず 自己認識 を持っているパーソナリティーとして、後に 自己認識 として表現するために3つの体を使います。私たちは誰もがミニチュア型のキリストロゴスであり、キリストロゴスによってみずからを表現している存在なのです。

キリストロゴスは、世界の全ての人々を照らす光です。新約聖書・ヨハネによる福音書1章9節に、「その光はまことの光で世に来て全ての人を照らすのである」とあるように、キリストロゴスの表現によって全宇宙にハーモニーが響きわたるのです。

「エソテリック・ティーチング」42‐44ページ

キリストロゴスが始めるのではありません。キリストロゴス行使し、管理している絶対存在であり、人間の中でのキリストロゴスの表現自己認識であり、理性であり、なのです。

いっぽう、絶対存在神聖なる意志として現われる聖霊には、全なる愛全なる智恵全なる力が含まれています。聖霊は原因と結果の世界である、さまざまな宇宙の調和を保っています。微生物の世界から銀河系まで、さまざまな宇宙の秩序と調和は、絶対存在全なる智恵全なる力の結果であり、キリストロゴス聖霊による完全なる共同作業の結果なのです。

つまりキリストロゴスとしての絶対存在と、聖霊としての絶対存在宇宙を創造しているのですが、キリストロゴス聖霊も、絶対存在から完全に分けることはできません。分けることが可能であれば、3つの神が存在することになってしまいます。

現実生命真理も、一つのものです。新約聖書・ヨハネの手紙一、第5章7‐8節に、「証するのは三者で霊と水と血ですこの三者は一致しています」とあるのは、父とロゴスと聖霊は一つ、ということなのです。宇宙を構成している素材、超素材、物質、超物質と共に、宇宙そのものも唯一なる創造主による現実としての表現です。もちろん、空間・場所・時間の世界、そしてノエティカル界、サイキカル界、物質界に存在するものは何であれ、神聖なる意志が最も思慮深く定めた循環の中で動かされ不変の法則によってコントロールされつつ生命現象を表現しています。

宇宙は、キリストロゴス聖霊によって共同創造されています。しかし、宇宙が創造される以前、あらゆる種類の表現がなされる以前にも、万物は全て静止した、未だ表われていない状態で、神聖なる自己充足の中に存在していました。

結果として天地創造をもたらす神聖なる意志の喜びも、神聖なる自己充足の中に存在していました。かつてあった存在物も、これから表われるであろうあらゆる存在物も、全てがすでにもともとある” のです。聖なる全ての中でも最も聖なるロゴスであるキリストロゴスはもちろんのこと、全てのロゴス的な聖なるモナドも、またプリンシパリティーズ、ドミニオンズ、オーバーロードシップなどの階級に属する大天使たちも、その表現に大小の違いがあっても、多重性における絶対存在であることは変わりません。

だから微細な表現であれ雄大な表現であれ、私たちはその中に同じような完璧さ、絶対性、完全性を見い出すのでしょう。私たちが宇宙全体にも、太陽や星雲の中にも、たった一つの細胞の中にさえ絶対存在キリストロゴス聖霊の、神聖なる「全なる智恵」を完璧かつ絶対的な形で見ることができるのは、そのためなのです。

私たち人間は、絶対存在に似せてつくられています。その本質は同じですが、数量的にはもちろん比べものになりません。このような理解は、大多数の人々の理解とはかなり異なるでしょう。それは、真理の探究者が絶対存在の本質を理解する方法が、大多数の人々のそれと異なるからです。

キリスト教には、これまでお話したような概念に関する、全ての答えが含まれています。ロゴスであるイエスは、人々の心を支配する暗闇を消し去り真理や生命に導くを教えるために、この世界に現れました。あの時代の人々は肉体の中に神がいましたが、絶対存在を理解することができず、また正しく気づきを理解することもできませんでした。人々には教えが必要でした。その教え言葉と行ないで示して見せたのが、イエスだったのです。

「エソテリック・ティーチング」36‐38ページ

↑ このレベルの理解に、今生では到達できそうにない、、、が、「真理の探究」が最優先事項ゆえ、地道に弛まず進みます (๑•̀ㅂ•́)و✧