あいだ通信 no.2:能(あちらとこちらの間)
第二弾となる今回のテーマは「能」。650年以上に渡り続く伝統芸能「能」に秘められた「あいだ」の思想を巡っていく。
日常の生活感覚では、時間は現在から未来へ、時計回りに進行していく。一方で、能の舞台上では時間の流れに歪みが生じる。目の前が突然過去にワープし、気付けば現在に戻っている。現在から過去へ、過去から現在へ。時間がまるで夢のように揺らめく。
この通常とは異なる時間の流れを舞台上で表現し、それに古言で語られる謡曲や無表情のお面、演者のスローモーションが観客に畳みかけるために“よく分からない”、“眠たい”と言われることが多いのかもしれない。
ただ、そこで捨ててしまってはもったいない。650年以上続いてきた「能」には、現世を生きる上で大切にするべき花がある。過去と現在のあいだで舞う「能」の奥深いところを旅してみたい。
1. 夢幻能とは
能には大きく分けて「現在能」と「無幻能」の2種類がある。
現在能は、時間の経過とともに話が展開していく、演劇やドラマなどで馴染み深い形式で、そこでは実際に生きている人のみが登場人物となる。一方で、夢幻能はこの世に悔やみや恨みを残した過去の人(死者)が「幽霊」として登場し、その声を現世の人が聴くという形式をとる。
ここでは能の代名詞である夢幻能を題材にしていくため、登場人物として最低限おさえておきたい「シテ」と「ワキ」の役割と、物語の進行イメージを共有する。
このように、夢幻能の舞台上では、そこにいるはずのない者(幽霊)が登場することで、舞台の上(観客からしたら目の前)が夢なのか現実なのか、過去なのか現在なのか、時空間が曖昧になっていく。
2. 残念の地層
幽霊が出てくる演劇は世界にあっても、幽霊が主人公となる演劇はあまりない。「能」は今はなき死者の声にスポットを当てる。観客は旅人(ワキ)に感情移入しながら、幽霊と出会い、それが抱えた無念を聴き弔う世界に没入していく。
この一見シンプルな物語のかたちは、新しい要素を取り入れながら650年以上も受け継がれ、支持されてきた。その背景には、時の権力者や財界人といったパトロンに支持された事実がある一方で、人間の素質や宿命をよくよく捉えた「能」自体の仕掛けによって、どの時代にも必要な器として機能したと考える方が適しているように思う。
考えてみれば当たり前のことだが、一人ひとりの「生」は刻々と「死」に向かっている。この時間の流れを止める事は誰にもできない。
そして、「死」という生命の儚さの傍には、個人的な小さな物語から社会的・政治的な大きな物語までが横たわっている。誰もが悔いなく死ねたらと思えども、皆が皆そうはいかない。能が大成した中世の時代を踏まえれば、そこは戦乱の時代であり、予期せぬかたち、後悔が残る状態で迎えた「死」が多々あった事は想像に難くない。まさに、“念が残る”、残念な状態だ。
「死」は儚いばかりか、時折悔しい「死」を受け止めなければならない現実がある。その美しくも、儚く、残念な側面を併せもつ人生を共有するように。あるいは、大小さまざまな無念を次の時代に引き継ぐように。
「能」は世の中に転がり落ちた無念を拾い集めて、保存する。そして、無念が積み重なった土壌「残念の地層」として、地を支え、動かしているのだ。
3. 現実を二重化する仕掛け
旅人(ワキ)が話をしていた相手(シテ)が実はその地に関わりを持ち、世に念を残したまま去った故人(幽霊)であったという夢幻能の設定。
舞台上に「幽霊」というかたちで亡き人の声と姿を現前させ、旅人とそれに感情移入した観客が一緒になってその声を聴く「場」が生まれる。その時、わたしの頭には、起きてしまった変えることのできない現実(事実)と、もし状況が異なっていたときにありえたかもしれない別の現実(想像)のふたつが同時に畳み掛けてくる。
これはあくまでも一人の能楽鑑賞者としての受け止め方ではあるものの、過去に起きた現実は変えられないと知りながら、IF(もし)の現実が想像のチカラを借りて加わり、現実が二重化してしまうのだ。
これが夢幻能を構想した世阿弥の企みなのかは分からないが、現在を引き裂くようにして、過去の声を届ける「幽霊」のすがたは、観客一人ひとりのパーソナルな部分に働きかける。例えそれがひとりの凡人に起きたささやかな恋煩いであったとしても、そこに絡み付いた時代背景を丁寧に拾い、時には編集を加えながら、観客全体に関わる文脈として問いかけてくる。
「能」は”死を公共化する”プロセスを経ることで、過去の現実から別の未来(現実)を想起させる、まさに”メディア芸術”である。
4. 後ろ向きに前をゆくボートのように
能の舞台上を流れる時間は、旅人(ワキ)が幽霊(シテ)に出会うことで「過去」に逆流する。ただ、それは単に歴史をなぞる旅ではない。時代を経るごとに下に下に堆積し、見えにくくなる「残念の地層」に大事なものを探しにいく旅である。
能の思想を今に語り継ぐ『風姿花伝』に「花と、面白きと、珍しき、これ三つは同じ心なり。」という一節がある。
そこにあるのにも関わらず、普段は目がいかないもの。それに目が連れることを「目連らし=珍し」とするように、過去から現在に長い年月をかけて堆積された(見えにくい)ものに、視点をズラすことを「能」はやってのける。
現在から未来を予測したり、あるべき未来から現在の行動を整えたり、前に前に、先に先に進もうとする社会に対して、過去を向きながら現在を生き、過去に学びながら未来を思索する姿勢を「能」は説いている。
あの世とこの世、過去と現在の「あいだ」を彷徨う「幽霊」を侮ってはいけない。それはヒトがよりよく生きるために、ヒトが年月をかけて育てた代物である。
進行方向に対して身体を後ろに倒し、ゆっくりと前に進むボートのように、「能」は過去(故人の悔やみ)を丁寧にまなざしながら、未来に向けて今を確かに漕いでいる。
Text by Keisuke Saeki(星ノ鳥通信舎)
Art Direction by Sakura Ito(星ノ鳥通信舎)
Special Thanks |
Photo by Mitsuyuki Nakajima / DANCE(三度目の京都より)