教壇に立ち続ける 111 共通テストを解いてみた【note限定記事】
2時に起きました。ホラーな夢を見てしまったので、暗闇の中Twitterを眺めておりました。どうも星野です。今回の記事は共通テストを解いてみて感じたことを綴っていくものです。この記事を読んで、参考になったなーとか、いいなと思って頂けたらサポートをお願いします。minneとFantiaはこちら。最近は全然趣味の時間が取れていませんが、なんと来月5連休があることに気付いてしまい、こうなったらといろいろ画策しています。ハンドメイドも近々復活予定。よろしくどうぞ。
概観
試行調査で散々なけなされ方をした、共通テスト。記述式だの民間テストだの、まあクレームがつくのも当然としか言いようのない、忖度した問題しか出ていなかったのであの試行調査は擁護しませんが、それに比べたら遥かにマシな問題が出ました。というか、センター試験のマイナーチェンジでしたね。国語しか解いていませんが、高校国語科の為すべき仕事は「文章に書いてあることから考える」「勝手に自分にとって都合のいい解釈を入れない」「問題を解くときは本文を熟読し、出てきた単語だからと言って軽率に食いつかない」……あたりに尽きるのかもしれないと思った次第です。
可能性を秘めていた「評論文」
今回面白かったのは、「妖怪」をテーマにした評論文でした。問題もていねいなつくりで、しっかり文章の中の論理の構造(組み立て)を把握できていれば容易に解ける問題だと思いました。逆に言うと、飛ばし読みでは太刀打ちできないし、本文中の言葉が使ってあるからと惑わされてはいけない選択肢になっているので、作問上の参考にもなりました。この評論文では、旧時代的な「妖怪」の位置づけからはじまり、江戸期に起きた意識の変革と、近代での扱われ方を比較していく展開になっているのですが、そこの複数テクスト読解問題に芥川龍之介の「歯車」を出したのです。ドッペルゲンガーをどうとらえるか、という問題で、最初に読んでいた評論文の考え方を応用する形を取りながら考察した内容として妥当なものを選択させる問題でした。ある先生は「この問題は私大や授業での発問なら、記述でも……」とおっしゃっていましたが、私もそれは同感で、非常に興味深い関連付けだと思いました。何も「論理国語」という科目は「駐車場の誓約書」だとか「生徒会規約」などを読ませるものではない、そこにとどまらないのだ、という作問者の願いというか、メッセージを発されたような気がしました。これでだいぶ「論理国語」と「文学国語」を架橋する方法が見つかりました。その意味では大変意義のある問題だったと思います。
(それにしてもあの試行調査や対策問題からは大きく離れた試験内容になり、予備校などにはクレームがいかないのでしょうか……あまりにも事前の模試などとは違いすぎるという声もありましたし、これくらいのマイナーチェンジなら今年やらなくてもいいじゃん……というご意見もありました。確かにこれは急いで改革した意味がないですね)
交差する教科で横断したい
論理国語と文学国語は、絶対に交差します。なぜなら、この二つは不可分だからです。論理の中にも情動はあり、情動にこそ論理が宿る。私も物書きの端くれで、小説やTRPGシナリオ(要は脚本ですね)、短歌などを書き散らしている者ですから、わかります。以前ある先生が「国語を教えるなら実作者であったほうがいい」とおっしゃっていて、それはかなり的を射た発言だったと今でも思うのです。私が何か作品や記事を書いているときの情動と論理は、複雑に絡み合っていて、うまく分けられるものでもないし、私のこの文章だって、評論という体を成していないものなのに「考察」などとタグをつけています。だからこそ、このふたつは分けてはいけなかったし、教える側も連動させながら指導しなければならない。私はそう感じました。今回の「妖怪」と芥川のように、文学作品の中で出てきた事象を、評論の読解で得た知識を使って考察する方法はもとより、私が以前お話したものもあります。(リンクはこちら)
実践例
私がこの共通テストを解いてみて、今後どういう実践を行おうかと考えたときに、一番最初に思い浮かんだのが「詩歌の理論」に関する書籍(文芸雑誌とかでもいいですね)を分析しながら読み、それを応用して短歌や俳句、詩歌を批評する授業。プレバトにご出演されている夏井先生の書籍があればベストかもしれない。そして古典でやるともっと幅が広がります。古典の歌論書は結構あるので、単なる文法の振り返りだけでなく、古典作品の中の論理を読み解く授業にもできそうです。古典作品は品詞や文法の確認だけにとどめてしまうのが非常にもったいないので、鑑賞に目を向けさせたいという願いもあります。2学期は「大鏡」で批評を行いましたが、勤務先の生徒の中ではちょっとしっくりこなかったようなので、いかに「古典は暗記」的な授業が行われてきていたのかという悲しみを味わいました。来年度古典をもったら絶対に変えてやる。
とにかく、私は今回の問題を解いてちょっと安心しましたし、国語科はもうしばらく持ちこたえなければならないとも感じました。各教科の根っこにあるのは国語の読み書きの能力です。それを伸ばしながら他教科との関連性を見つけたり、同じ教科のなかでも国語表現と文学国語・論理国語だとか、交差するポイントを見つけて知識や教養と同時に「本当に大事な、文章を正確に読み取る能力」を養っていきたいものだなあ……と思う早朝。そんなところでこのおはなしはおしまいです、それでは、また。
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