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ムスメとめぐる冒険〜日本から南半球まで

「周りに流されない自我と確固とした個性があって、いかにも海外で育った、グローバル・パーソンという感じがします」

ムスメの現在の社会的評価は、だいたいこんな感じだ。

16歳のムスメは、6歳の4月から14歳の1月まで南半球のニュージーランドで育った、いわゆる帰国子女である。

けれど、ムスメのもろもろの個性は彼女がニュージーランドに住む前からほとんど変わっておらず、つまり彼女はナチュラルボーンで周りに流されない、個性の強い個体なのだ。

ひとことで言うとマイペース。

ムスメが生まれて初めてそのマイペースぶりを指摘されたのは新生児室だったのだから筋金入りである。

プロとして、毎日たくさんの新生児を見てきたであろう看護師さんたちに「お母さん、この子ね、ぶっちぎりのマイペースです」と太鼓判を押された。

お腹を空かせた赤ちゃんが合唱するように泣いている新生児室。

そこで1人だけ熟睡しているムスメを、看護師さんと2人がかりで足の裏をくすぐってなんとか起こす。それが毎回。

しぶしぶ起きて、おっぱいを飲み始めても、すぐにまた寝てしまうムスメ。

しかも飲み方が下手すぎて、授乳前に測った体重より授乳後のほうが減っている。

え???そんなことある???

ベテラン看護師さん曰く、
「この子、外の世界に出てきた自覚がまだないのかもねぇ」

え???そんなことある???再びである。

その後もムスメは、1ヶ月検診で居残り指導になったり、育児相談で別室指導になったりした。

どんなに月齢が進んでも彼女の授乳間隔がちっとも開かないせいだった。

ムスメが一度に飲めるおっぱいの量は、毎回、小児科の先生や栄養士さんや保健師さんを絶句させる。

けれど本人に健康上の問題はなく、
「とてもマイペースですね」
以上。解散。その繰り返しだった。

結局、ムスメの授乳間隔は1歳半で断乳するまで1〜2時間おきを死守することになった。

そうしないと生きるのに必要な量の母乳を飲むことができないから。

粉ミルクは全拒否だった。

ムスメは自分が美味しくないと判断したものは頑なに口に入れたがらない子で、そのせいかどうか分からないものの、指しゃぶりはいっさいしなかったし、食べ物以外のものを口に入れることはただの一度もなかった。

ここでも『周りに流されない自我と確固とした個性』の片鱗が見えていたと、今なら思う。

(そのくせ、離乳食は誰よりもよく食べて(朝から茶碗3杯のお粥を平らげていた)、今度は検診で「どれくらいまでなら食べさせても大丈夫ですかね?」と聞くことになったのだから、子育てぇぇ!)

そんなムスメの個性は、幼稚園児になる頃には、入園式で1人だけ床に突っ伏して「おうた、うたわなぁい」と拒否していても、運動会のリレーの練習でスキップしていても、周囲からは「それがムスメちゃん」と受け入れられるようになっていた。

ありがたいことである。

その頃のムスメを知る人と再会すると、「ムスメちゃん、変わっていなくて嬉しい」と言われる。

親以外から見ても、やっぱり変わってないらしい。

このように、ムスメの個性は海外(ニュージーランド)で育ったことで培われたものではなく、彼女が生まれ持ったもの。

けれども、ニュージーランドで暮らしたことでそれが補強されたことは間違いない。

特にムスメが通った小中一貫校の影響は大きいと思う。

ニュージーランドは公立の学校でも校長の裁量が大きく、独自性が強い。

(これは教育委員会を廃止したことに由来するらしいのだけれど、詳しくは分からない。)

そんなニュージーランドの学校の中でも、ムスメの卒業した小中一貫校は特にユニークな学校として有名だった、らしい。

そんなことは、移住してきたばかりの外国人である私達夫婦には知る由もなく、オットの通う学校から近く、ESOL(English for Speaking Other Language)の授業があって、見学した時の雰囲気がムスメに相性が良かった幼稚園に似ているという理由で選んだ学校だった。

そのユニークさを同じ学校の日本人ママから教えて貰ったのは、ニュージーランド生活も3年を過ぎた頃だった。

ムスメが通った小中一貫校のユニークな特徴を説明するのに、カリキュラムに採用されていたレッジョ・エミリア・メソッドやスタンフォードデザイン思考、子どものための哲学をあげることもできるけれど、それよりもなによりもあの学校は校長のマルコムの教育方針が素晴らしかった。

マルコムの教育方針、それは
「子どもを創造的に育てるには失敗ができる環境でなくてはならない。創造的な人は一度の挑戦で成功するわけではない。何度も挑戦と失敗を繰り返して、改善を繰り返す人。そのために努力を続けている人。子どもには安心して失敗できる環境を用意したい」
というものだった。

そんな環境で、ムスメはのびのびと育った。

のびのびしすぎて、インド人のクラスメイトに「ムスメはもう少しちゃんとした方がいいと思う。先生が言ったことを(英語がまだよく分からない)ムスメが理解しているか、クラスのみんなが心配してムスメを見たら、ムスメは踊っていた。やたらとすぐ踊るのは良くない」と注意されたくらいだ。

まさかインドの人に「すぐ踊る」と呆れられるなんて。

クラスメイトもまさか日本人にそんな注意をする必要があるなんてと驚いたのではないだろうか。

ニュージーランドは多民族の国なので、ムスメの学校にもさまざまな人種、国籍、宗教のクラスメイトがいた。

ダウン症のクラスメイトも、専属のサポートの先生と一緒に、同じ教室で学んでいた。

ムスメは一歩家の外に出れば、多様性について考えない日は1日もなかっただろう。

日本からの移民であるムスメもまた、教室では多様性を構成する1人だった。

みんなが違うのがあたりまえの環境では、ムスメのマイペースぶりも、たくさんある『違い』のひとつでしかなかった。

木の葉を隠すには森。

その言葉をしみじみ噛みしめたニュージーランド生活だった。

ちなみにムスメがいま通っている日本の高校も、伝統校でありながら、ムスメ以上に強い個性を持った生徒達がのびのびと学んでいる環境である。

木の葉を隠すには森ですよ。やはり。

担任の先生によると、ムスメの個性は「それがムスメちゃんだから」で受け入れられているらしい。

相変わらずだ。

本当にありがたいことである。

なにかとマイペースなムスメを育てるにあたって、私たち夫婦が悩んだり、不安に思うことはなかったのか?と問われれば、
「もちろん、悩んだり、心配したりの連続です」と答える。

悩まない親なんていないだろう。

ただ、悩みの内容は親の数だけあると思う。

うちの場合は、乳幼児の頃から一貫して「どういう環境なら、ムスメがムスメらしくいられるか」とか「その環境を整えるために親がしてあげられることは何か」が悩みのメインだった。

「だった」と過去形なのは、ムスメがもう16歳で、自分で自分の飛び込む環境を選ぶ年齢になってきたから。

ここまで成長したら親にできるのは、お金(学費)の工面と心配と祈ることくらいじゃないですか?

交通事故に遭いませんように。犯罪に遭遇しませんように。誰かの悪意に晒されませんように。大きな病気になりませんように。

そして。

できるだけ毎日、幸せな気持ちでいられますように。

ぶっちぎりマイペースな乳児だったムスメ。

育児書も、他の人の子育ても、ほとんど参考に出来なくて、途方に暮れて泣く日もあった。

そんな私を救ってくれた言葉がある。

私はかつて保育士を養成する学校のPTA事務として働いていた時期があるのだけれど、その学校が閉校することになった。

その記念式典には歴代の職員である私も招待されており、生後半年のムスメと一緒に参加した。

そこで再会した保育原理の先生の言葉である。

先生は私に抱っこされたムスメをニコニコ見つめて、こう言った。

「保育の教科書にこの子のことは載っていないけれど、教科書に書いてあるようなことはみんなこの子の中にあるの。この子のことをよーく見てあげて。この子に必要なことは、この子が教えてくれるから」

保育士歴40年超えの、ベテラン中のベテランの保育士でもあった先生には、私の顔を見ただけで何か察するところがあったのかもしれない。

今となっては先生の真意は分からないけれど、あの日、あの時、貰ったこの言葉のおかげで、私はムスメを無事に育ててこられた気がしている。

具体的なアドバイスだったわけではない。

けれど、ムスメの子育てに挫けそうになった時、この言葉がいつも私を支えてくれた。

この言葉があったおかげで、私もオットも、マイペースなムスメを誰かと比べて焦ることも、急かすこともなく、彼女に足踏みや寄り道や遠回りが必要なら、それに付き合うことが出来た。

たとえ遠回り先が、地球の裏側だったとしても。

ムスメのおかげで、ダディとマミィも大冒険できたよ。ありがとう。



















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