君がいたから

夏祭りの出店、街頭の募金箱・・・
子どものころ、僕の心をまどわせていたものだ。
といっても、ほかの人とは少し事情がことなるのかもしれない。


低い視線をすこし上にもっていくと、焼きそば、たこ焼き、りんご飴とかの出店が両脇に立ちならんでいた。
そして、出店の前にできる背の高い人たちの列。
お店がちゃんと売り上げて、お客さんがお祭りを味わえて、誰もが良い気分になる。
自分が楽しければ、お祭りは楽しいものなのかもしれない。
だけど、幼い僕にとっては、その光景も大きなよろこびのひとつだった。
だから、空いたお店を発見すると、ひどく敏感になった。
暇そうな仕草を見せる店主、売れのこった商品、奥に積まれた在庫。
それらに思いを遣るたびに、どこからかいたたまれない気持ちが湧いていた。
僕に何か落ち度があるのか、と聞かれたら、きっと何もないのだろう。
だけど、気づいてしまうのだから、感じてしまうのだからしょうがない。
そして、ポケットの中でチャラチャラ鳴っているものを使えばなんとかできるのだから、まったく蚊帳の外のことというわけでもないのだ。

街頭の募金箱もそう。
手に握りしめたお小遣いの500円。
何分の1でいいから分かち合えば、救われる誰かさんがいる。
その事実にふと気づいてしまっていた。

すこし大きくなってから行った旅先のこともそうだ。
自分が行ったことのない土地では、非日常的な体験をすることが多い。
観光名所、電車やロープウェイからの風景、街のお土産屋。
観光客から見たら新鮮な景色だけど、もともとそこに住んでる人とか働いてる人にとっては、ありふれた日常。
そんな事実をふと思い遣って、何かが揺れ動いたという訳ではない。
ただ、「気づいた」ということが自分の中で大きくなって、やがて形をのこさずどこかに消えていく。

そして、こんな取り留めもない考えを誰かと共有できるかもしれないと願いながら、時を経るにつれ、だんだんとその希望にふたをしていったのも事実だった。



そんなことを悶々と考えていた日々をとかす出会いがあった。
スピッツだ。

僕が手にした歌詞カードにかかれた文はどう考えても不思議で、大衆向けとはいえないものだった。
なぜなら、僕と似たような考えが歌詞になっていたからだ。
僕が半ばあきらめて閉ざしていた考えが、だ。
絶対に少数派だと思っていたものが、こんなにも広く知れ渡っている。
みんな何かしらの魔法にでもかかっているのかと思うくらい、くすぐったい思いを抱いた。

愛はコンビニでも買えるけれどもう少し探そうよ /運命の人

"愛はコンビニでも買える"

その歌詞は、平べったい世界の中には納まらなかった。
もっと奥行きをもって、僕の中に染みこんできた。
さりげなく渡すドリンク、半分こにした中華まん。
昔クレヨンしんちゃんで、空き缶のプルトップを指輪に見立ててた回もあったっけ。

波は押し寄せる 終わることもなく
でも逃げたりしないと笑える /群青

困難とか、いやなことに直面したとき、どうしても逃げたくなる。
そしてそれは幾度となくやってくる。
だけど、背を向けつづけていたら何にもならないことは、これまでの経験で知っている。
もうそんな日々をくりかえしたくないという思いとかプライドのため立ち向かっていく自分。
身の丈にあわないことをしてるな、っていうのは分かっている。
その自分が愛くるしくて、ふとおかしくなってくるのだ。

・・・そんなことを想像したり、思い出したりして、やがて夢うつつな時間は過ぎていく。
特に意気ごんでいるわけじゃない。
ただ、それまで頭の中で考えてきたことと似たような言葉を前にして、自然とわきおこるような類いのものだ。
今まで悶々としてきたことが、誰かから理解されていて、誰かと共有できるカタチとして認められていることにホッとしたのかもしれない。
ひとことでいえば、うれしかったのだ。


スピッツは先日、新アルバム「見っけ」を発売した。
その中の1曲「ラジオデイズ」にこんな1節がある。

君がいたから僕は続いてるんだ

子どもの頃から聴いていたラジオへの感謝を込めた曲、と位置付けれているらしい。
僕にとっての"君"を思い浮かべて聴いていた。
昔の記憶とともに、何かこみ上げてくるものを感じた。


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