地域発で、共生共助のモデルケースを作る(新井和宏、高橋博之『共感資本社会を生きる〜共感が「お金」になる時代の新しい生き方〜』を読んで)
お金とは何か?
そんな問いを投げ掛けられたら、どう答えるだろうか。
子どもの頃だったか、社会の授業でお金の歴史について学んだ。かつては物々交換だったけれど、物同士のやり取りは不便が多い。保管性の低さ、重くて扱いづらい、等価交換に至りづらい等々……。
お金そのものには価値がないけれど、「みんなが使うもの」という信用が加わることで、誰でもフラットにお金を扱えるようになる。お金には「色」がない。クレジットカードには審査が入るけれど、お金は、使用者の信用レベルには無頓着だ。僕の1,000円と、岸田総理の1,000円は同じ。よくできた仕組みであり、複雑化した金融の世界においても、今なお中心となって廻り続けている。
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新井和宏さん、高橋博之さんが共著となって記された『共感資本社会を生きる〜共感が「お金」になる時代の新しい生き方〜』は、その前提を疑うことから始まっている。
新井さんの問題提起は、お金依存症になっている社会で生まれている循環(経済の回り方)は、果たして健全なものなのか?というものだ。
お金が手段でなく、お金が目的になっている。
本当か嘘か定かではないが、転職の際に「年収が落ちること」が家族から反対される主要因であることが多いらしい。どんなにやりがいのある仕事でも、年収が落ちてしまうと生活が苦しくなる──と短絡的に結びつけてしまうのだ。
このロジックを裏返せば、①まず年収が落ちない転職先を探す、②その中で自分のやりたいことに近いことを探す、という順番になっていることが分かる。
このロジックに「そりゃそうだろう」と同意する人は、もしかしたらお金を目的としたマインドセットになっているかもしれない。
お金を稼げるかどうかは結果だ。想定額に届かなかったとしても、生活が成り立つようにやりくりすれば良いだけだ。誰かから借りても良いし、あるいは金でなく物を調達できる仕組みを作っても良い。生きるために、選択肢は無数にある。
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やや話が飛躍したが、新井さんと高橋さんは「関係性」に着目する。
新井さんは「日本ほど、先進国で自然災害の多い国ってないんですよ」と言う。「だからこそ日本には、共生や共助が生まれてきたのだ」と。
お金依存症になることで、自助や自己責任が当然のことになってしまう。
自分が成り上がるために他人を蹴落としても構わない。自分が良ければいい、そのためには相手より先に進んでいなければならない。自己責任が蔓延した社会に、共生や共助が生まれるようなインセンティブは発生しない。
誰が、そんな社会で暮らしたいと思うのだろうか。
だからこそ思うのは、日本という国が、共生や共助をベースにしたモデルケースを作れないか?ということ。
夢物語かもしれない。だが実際に、新井さんは現在、北海道ニセコ町でそのための実験を行なっている。ニセコに定住し、地域通貨「eumo」の運用を手掛けているのだ。
先日新井さんの話を聴く機会を得た。そのとき新井さんは「地域という小さな単位でeumoが広がっていくと、その中で大きなインパクトを出しやすい。東京とか、国とか、大きな単位で行なってもインパクトは出せない」という趣旨の発言をされていた。
共生、共助がベースとなる世界は、夢物語ではない。
その大きなチャレンジを目の当たりにして、大いなる刺激を受けた。僕も、新井さんの後に続きたい。
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*おまけ*
新井和宏、高橋博之『共感資本社会を生きる〜共感が「お金」になる時代の新しい生き方〜』の感想を、読書ラジオ「本屋になれなかった僕が」で配信しています。お時間あれば聴いてみてください。
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