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みんなが燃やしちゃった(半藤一利『歴史と戦争』を読んで)

幻冬舎新書から発刊されている半藤一利さんの『歴史と戦争』。編集者の小木田順子さん、石川陽子さんの手により、半藤さんの著書が一冊の本に編纂された。

思考の軌跡が綴られており、半藤さんの生涯の思索を追体験できる。「半藤一利の入門書」としても最適と言えるだろう。

あとがきで半藤さんはこのように述べている。

(年賀状を受け取った後の)十日ほどたったある日、ドサッと分厚い原稿のゲラ刷りがいきなり届けられたのである。それに目を通してみてもう一度わたくしはひっくり返った。なぜならこのゲラでわたくし自身を嫌というほどみせられたからである。つまり、一所懸命に生きてきたこの長いわが生涯を、あらためて生き直す感を味わわされた。で、「ウヒャーッ」ともう一度叫ばないわけにはいかなかった。
(半藤一利(2018)『歴史と戦争』、幻冬舎新書、P206〜207より引用、太字は私)

*

たくさんの史実に関して綿密に調査が重ねられる。半藤さんの歴史観が裏付けされた「源泉」を測り知ることすら憚られるほどだが、テキストとして読み応えがあるのは間違いなくて。

いわゆる晩年に近い出版物となるわけだが、その思索は、いよいよ現代に生きる人々へのメッセージにも転換されている。

例えば『「東京裁判」を読む』の「みんなが燃やしちゃった」。半藤さんは歴史に対する責任を持たない日本に対する懸念を表明している。

陸軍省と参謀本部などがあった市ヶ谷台の庭では、終戦前日の八月十四日の晩から十五、十六、十七日まで延々と火が燃えていたそうです。陸軍が資料を燃やしていたんですね。ただ、陸軍の悪口ばかりは言えない。新聞社もみんな日比谷公園に集まって、資料から写真まで燃やした。
本当に日本人は歴史に対するしっかりとした責任というものを持たない民族なんですね。軍部だけではない、みんなが燃やしちゃったんですから。
(半藤一利(2018)『歴史と戦争』、幻冬舎新書、P132〜133より引用、太字は私)

今も昔も、国家という体裁を保つために、不都合な事実は隠蔽されている。燃やす、隠す、強弁する。

「これが日本人の特徴だ」と一般化するとたちまち炎上しそうなものだが、半藤さんの功績がそれらの声を封殺する。

何も変わっていない日本人観、その言葉は重い。

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また半藤さんは明治維新のことを「明治維新などとかっこいい名前をあとからつけたけれど、あれはやっぱり暴力革命でしかありません」と切り捨てている。

この辺りの言及は、僕がかなり影響を受けた司馬遼太郎さんの歴史観、いわゆる「司馬史観」と大きく異なる。歴史は史実としての側面がありつつ、時間が経つにつれて「誰の解釈か」によって大きく見え方が変わってくる。

言わずもがなだが、なるべく多くの「解釈」を読みながら、そして現地を巡るなどして解釈でないレベルでの史実を丁寧に紐解く必要がある。

その時間は多くの人にとって持ち得ないものだからこそ、代わりに綿密な調査がなされ、信頼たる歴史観として提示された。その価値は、もっと広く知られて良い。

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最後にもう一度、あとがきから半藤さんの言葉を引用する。半藤さんが残した言葉の意味を重く受け止めよう。今を生きる僕らは、虚構の上に胡座をかいてはいけないのだ。

わたくしを含めて戦時下に生をうけた日本人はだれもが一生をフィクションのなかで生きてきたといえるのではなかろうか。万世一系の天皇は神であり、日本民族は世界一優秀であり、この国の使命は世界史を新しく書きかえることにあった。日本軍は無敵であり、天にまします神はかならず大日本帝国を救い給うのである。このゆるぎないフィクションの上に、いくつもの小さなフィクションを重ねてみたところで、それを虚構とは考えられないのではなかったか。そんな日本をもう一度つくってはいけない、それが本書の結論、といまはそう考えている。
(半藤一利(2018)『歴史と戦争』、幻冬舎新書、P207〜208より引用、太字は私)

──

*おまけ*

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