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糸井重里さんも、毎日書いているじゃないか。

2021年9月6日にWebサイト「ふつうごと」を公開した。

今日で100日が経った。記事やエッセイで関わった人たちがとても魅力的で、本当に楽しい日々だった。

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Webサイトを運営している中で、ベンチマークしているのが、株式会社ほぼ日「ほぼ日刊イトイ新聞」だ。(大変恐縮ながら)

1998年6月6日創刊以来、一日も休まず更新しています」という言葉がずしりと響く。もともとコピーライターとして名を知られていた糸井重里さんが、そんな泥臭さにこだわっていることに刺激を受けた。

あの糸井さんでさえ、いまだに、毎日文章書いているのか

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ということで、僕も公開後、毎日欠かさずにエッセイを書いている。

その名も「ふつうエッセイ」。今日で100回目のエッセイだ。何とかネタを見つけて書いている。

エッセイを書いて気付いたことが3点ある。

1. エッセイを毎日更新するのは大変だ
2. エッセイストの才能は先天的なものである
3. エッセイを書くことで得られる気付きは代え難い価値である

ということ。

僕は、カジュアルなトーンでエッセイを執筆している。傍から見れば、文字量の多いnoteの方が大変そうに映るかもしれない。

だけど実際のところ、エッセイの方が難しい。

エッセイは自由度が高い。コラムなら論旨を伝えるための「型」があるが、エッセイにはない。オチのあるエッセイもあるけれど、必ずしも起承転結で書き進める必要はない。日常生活で発見したあれこれや、書き手の感情の発露をフリーフォーマットで記述できる。

そもそも、日常生活で何かを発見することは困難だ。

だって、日常なのだから!

それを瑞々しい表現で書き上げることができるエッセイストの才能は、ほとんど嫉妬してしまうほど先天性の高いものだ。彼らは、僕らが日常生活で気付けないことに、ちゃんと気付くことができる。気付けるからこそ、「なんでもない」日常に面白さを感じられるのだ。

彼らがどんなふうに観察眼を持ち得たのかは不明だが、一朝一夕に身につけることができないのは確かだ。

だけどエッセイを書き続けると決めたのだ。糸井重里さんも、毎日書いているじゃないか。

半ば仕方なくだが、必死になって日常生活でネタを探すようになった。

するすると何かを見つけることはできないが、その姿勢を持てたからこそ、僕のような凡庸なエッセイストでもテキストを書き続けることができていると思う。

面白いか、面白くないかは別にして。

まだ100本しかエッセイを書いていない。もしかしたら200本書いたら、見えてくる世界があるかもしれない。あるいは2,000本書くまで分からないかもしれない。終わりは見えない。だけどエッセイを書き続けようと思う。だって、糸井重里さんも、毎日書いているじゃないか!

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このテキストを書いている途中で、ライター・古賀史健さんがほぼ日について言及したnoteが話題になっていた。

糸井さんの聴く能力の高さ、キャスティングという企画力、記事構成におけるデザインおよび編集力。

「ほぼ日刊イトイ新聞」から学べることは、まだまだ、たくさんありそうだ。

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