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【放課後】ダメなのは 努力が足りない それホント?(その5)~就職活動~

 私は「女にはモテない男」で「結婚できない男」なんだと人生のかなり早期からうすうす気付いてはいたけれど、それを理由に最初から走りも藻掻きもしないのは人生から逃げていて何となく卑怯な気がしたし、結婚できる人たちから「君にはやる気と努力が足りないからだよ」と物知り顔で言われるのが嫌だったので、とりあえず気の済むまではチャレンジした。その結果、世間には、走っても藻掻いても、どうしても結婚できない人が存在して、私自身がその一人であると分かった。若くして気付けたのは先見の明そのものだった。幸い、結婚を諦めるのと同時に我が子を授かることも諦めなければならないと若い頃からうすうす覚悟していたわけで、そのおかげで大人になってから大きなショックを受けずに済んだ。
 もう走るのも藻掻くのもやめた。他人には簡単そうに見えることでも本人にはとても困難なことというのが人生には必ずある・・・逆上がり、跳び箱、絵日記、アサガオの観察、割り算・・・それと同じように結婚が苦手科目という人がいるのだ。結婚は適齢期を逃すと“引き算”である。実現の可能性はピークを過ぎた途端、年齢とともに低下し続け、50歳を超えれば生涯未婚率にカウントされる。もはや決して“足し算”にはならないこの歳になって、こちらから誰かに近づけばストーカー扱いされるし、向こうから私に近づく人がいれば、それはハニートラップか美人局か詐欺師である。
 結婚を前提としない恋愛にしても、深入りするのはもうやめた。この歳になっての恋愛は、泳ぐくらいで丁度良く、溺れてしまうのはリスクでしかない。きちんと足の届くところまでしか入水しない。入水(にゅうすい)であれば心地よいが、入水(じゅすい)は自殺行為。そこら辺のところを弁えて生きていくのが独身男の心得である。
 私は結婚できない人生を嘆いてはいない。私は一人っ子で兄弟もいないし、もう両親も親戚も全員他界した。身内というのが全くいない。でも仲間には恵まれているし、仲間に囲まれながらも独りで生きていくことは十分に慣れたし楽しい。ほんの寸分の悔いや迷いもなく、一切の苦しみも妬みもなく、この心の境地に達することができたのは、ひとしきり走って藻掻いてみた経験のおかげかもしれない。
 
 話はここから先である。この心の境地には素晴らしい「おまけ」が付いていた。それが「宝石」のような人生哲学である。ただの石ころのように転がっている当たり前の哲学なのだけど、実はその石がキラキラとした輝きを秘めた宝石の原石であることに気付けない人が意外と多い。あるいは原石であることを忘れがちな人が意外と多い。この宝石の哲学は、若い頃からうすうす「予測」することは可能だが、その後の人生における実験で検証しないと「確信」に変わらず、体に染みついた考え方にまではなかなか仕上がらない。だから、普段は石ころのように見落としがちになる哲学なのだ。
 
 中学生の頃、すでに私は結婚できないかもしれないと覚悟していた。「クラス45名のうち、男子が25名、女子が20名。この小宇宙の中で全員がカップルを成立させたとしても、5名は『飼い主の見つからない野良犬』となる。私がこの5名に入る可能性はあるだろうなあ。」という想像をしては、自己嫌悪に陥っていた。まあ、言ってみれば、自分が社会的弱者の一員たり得ることを予測し、その後実際に失敗の汗水を垂れ流し続けた実体験をもって、予測を確信に変えたのである。
 始めのうち、私は自分と同じように苦しんでいる人にしか目を向けなかった。だけど、自分が社会的弱者に該当することを語るとき、それが見苦しい自虐や哀れな被害妄想のように受け止められるのは本意でなかった。だから、自分よりももっと苦しんでいる人にも目を向けるようになり、その人が「自分は弱者だ」と語っていることが決して見苦しい自虐や哀れな被害妄想ではないということも知ろうとした。すなわち、私にとっての「結婚」と同じようなパターンを持っていて、なおかつ失敗すると私よりもっと深刻で悩ましい結果を招く人生のイベントについても思いを巡らせてみることにしたのである。
 
 分かりやすい例が「就職」である。就職は結婚よりも深刻だ。
 「婚活」の場合、「走っても藻掻いても結婚できない人」であっても、就職さえ失敗しなければ、とりあえず自立した人生を歩んでいける。結婚を諦めても、その人は独りで生きていけるし、むしろお金や時間や行動の自由度が高い分、結婚した人とはまた色合いの違う人生を送ることができる。ところが「就活」の場合、「走っても藻掻いても就職できない人」の悩みというのは、どうしても結婚できない問題より遥かに重たい。人生における幸せや満足度というものは、他人と比較するものでなく、自分で決めるもの。だけど、とりあえず自立しないことには人生における制約が多すぎる。
 出来なかったときの苦しみが「結婚」よりも深刻な「就職」に私が目を向けたのは、ただでさえ狭い了見を少しでも広げる努力でもあったわけだが、実際、私自身が不遇に不遇を上塗りしたような就職氷河期世代であったため、決して他人事ではなかったのである。
 
 大学生の就職活動では、まず関心をもった会社に自分の「学歴」や「資格」や「志望理由」を伝えて、資料請求をしたり、ガイダンスに出席したりしてから、さらに会社所定のエントリーシートに「ゼミやサークルの活動内容とその中での自分の役割」「学生時代に特に注力したことやアピールポイント」等、履歴書の詳細版みたいな内容を書いて提出し、その会社の採用試験にエントリーするところからスタートする。次に、エントリーが受理されれば選考に入るわけだが、幾度もの「面接」が続き、その合間に「学力テスト」「小論文」「外国語」等々の試験を受け、篩に掛けられていく。そして役員部長級の最終面接を通過すれば、ようやく内定に至る。時代や会社によって違いはあれど、大まかな流れはこんなもんである。
 私が入社を決めた会社は、最終面接が第7次試験だった。つまり内定とは、エントリーしたとしても、その後7回のハードルを乗り越えて手に入れることができる切符なのである。それが氷河期の就職戦争というものだった。よって、学生指導のしっかりしている大学では、就職活動が始まる前から「活動の心構え」「自己分析の方法」「履歴書のコツ」「訪問時のビジネスマナー」「面接の演習」といったセミナーが開催されるし、自信をもって活動に臨みたい学生は、合宿形式の研修にも参加する。
 
 長くても約半年、短いと数ヶ月、内定を比較的早く獲得できるのは良いことだが、とにかく短期間である。あの当時、約数ヶ月から半年の期間を長いと感じているような学生はもうその時点でドロップアウトである。長くても半年以内に「結婚」を決めろと言われたら、その過酷さが想像できるだろう。短い間に、お目当ての会社を探し、アプローチし、フラれたらすぐ次の会社の試験に集中する。そうやって何社も受け続ける。気に入られたら、それはそれで1社あたり何回もお見合いしなければ交際を認めてくれない。「有名大学を卒業すれば、それほど食いっぱぐれる心配はない」なんていう考え方はバブル期の化石。仕事と生涯収入は「その人の学歴・才能・努力」よりも「その人が就職活動を迎える時期の景気」によって大きく左右される。決め手は「自分の力量」よりも「生まれた時代の不可抗力」なのだ。その不運を嘆いている暇もなく、とりあえず少しでも興味が湧けば、名も知らぬ会社でも受けてみて、正社員の座を血眼で目指す――そういうサバイバルな時代だった。
 とはいえ、人生の自立という重たい命運を賭けている分、結婚を賭けた戦いに比べると、受付窓口の敷居は格段に低い。ちょっとでも好きなら、交際を申し込むのにいちいち勇気は要らないし、一度にたくさんの相手に堂々と告白して良い。但し、クラスの全員がその告白をしているような状態である。1つの会社に集まるエントリーシートは、幾千、幾万にもなる。人事部だって限られた人数で採用以外の仕事もしているのだ。一次選考を兼ねた「会社説明会」を「会場の都合上」という理由で先着順にするような会社も山ほどあった。まさしく「早めに伝えないと待ってはくれない」という点は恋愛と同じだ。エントリーシートだって会社ごとに様式や質問が異なっているから、単純に履歴書みたいに同じことを同じ場所に書けば済むものではない。その会社のためだけに丹精込めて仕上げた書類を一目見てくれるだけでありがたいという超買い手市場である。書類選考の結果、面接に漕ぎ着けるだけでも、学歴や資格や特技に特筆すべき点の無い者にとっては「関所」となる。まさに「写真たった1枚でお見合いすらしてくれなかった」過去の暗いエピソードを思い出さずにはいられない。
 こんなこともあった。某関西企業の説明会が都内で開催されたときである。「・・・本日の説明会で当社に少しでも関心をお寄せいただければ幸いです。それでは最後に具体的な募集のことですが、今期の新卒採用予定人数は2名です。はい、全国で2名です。皆さんご存知の通り、私どもは関西を拠点とする企業です。おかげさまで商いの範囲は全国各地や世界各国に及んでいますが、会社組織の心臓部の大半はやはり関西です。この中にも京阪神ご出身の学生さんが多くいらっしゃると思いますが、もし東京の方がチャレンジされる場合、この2名枠に入るのは正直難しく、その点は覚悟が必要かと存じます。」・・・会場は一斉に静まり返った。この会場には一体何人いるのか。どう少なく見積もっても1,000人は超えている。東京だけで説明会は3回やるという。3,000人は超える。採用は2人。・・・私は「だったら、何でわざわざ東京で3回も説明会を開催するのか」という疑問よりも「本当のことを早めに教えてくれてありがとう」という感謝の気持ちのほうが勝っていた。たとえその科白が「エントリー希望者が殺到すれば、オレたち人事部の仕事がむやみに増えるだけ」という本音から吐露されたものだったとしても、こちらはこちらで無駄足を踏まずに済んだ。この“門前払い”の出来事も、どことなく「言っとくけど、私、あなたとは結婚しないからね。私は一生京都から離れたくないの。それだけはちゃんとお断りしておこうと思ったの。ごめんね。」と彼女が私に告げた過去の暗いエピソードとリンクする。
 私は結局、別の関西企業に入社した。しかし、それは「他の会社では働く気になれない」というくらいの熱意が伝わったからであり、また私の入った会社は当然ながら如何なる理由があるにせよ「東京の学生はお断り」といった下品な発言を断じて許さない会社だった。
 
 要するに、私が当時この会社に正社員として採用されたのも、競争率が数百倍という中で偶然に偶然を上塗りしたような結果の産物だ。それが氷河期の就職戦争というものだった。限られた書類や面接で自分の経歴・能力・熱意を的確に相手へ伝えるための心技体を備えているのは当然の前提条件であり、その上で「この会社と性格が合っているのか」「なぜ数多の会社の中から、この会社でなければならないのか」「この会社で何が出来るのか」ということを、まだ1日も働いたことがないのに問われ試されるのである。そもそも自分に備わった心技体にしたって、大部分は偶然両親から譲り受けたものに他ならない。自分の力で得たかに見える経歴にしたって、大部分は譲り受けた力量と生まれ育った環境の結果に他ならない。私は確かに「努力」した。ものすごく努力した。でも、それは、大きな「運」を小さな「努力」によって伸ばしただけだと捉えることもできる。また、私が幸せになるために勝手にした努力である以上、その努力を誇りにこそ思っても、他人に自慢するのはおこがましい。
 世の中には、走っても藻掻いてもどうしても就職できないという人が存在するのだ。私自身がその一人になっていたかもしれないのだ。だからこそ自分が「運」に恵まれたことに感謝し、自分に与えられた天命に従い、多少の苦境にも文句を言わず、笑って人生を乗り越えなければならないのである。これくらいの謙虚な姿勢で生きてこそ、はじめて道理を承知したまともな人生と言えるのではなかろうか。
 
 「運」というのは、まさしく「運命」のことで、人間の力ではどうすることもできない神様による「人生の定め」のようなものである。神様を信じるか否かは別として、人生にそういう部分があることは何となく誰にも感じられることだと思う。例えば、自分が生まれること自体や、自分が生まれる時代や場所は自分には決められない。自分の両親が出逢ったことも運命である。だから、運が悪かろうと良かろうと、その運命に任せて生きるしかなく、もっと言えば、「どうせ予め定められた人生なら、運の良し悪しの捉え方も自分次第だ」と割り切って生きたほうが、多少は生きやすくなる気がする。
 そして「運」に左右される人生の中でも「努力」することは大切だと思うし、それが苦しみを伴うものであったとしても、自分が必要とする努力なら大いにすべきだと思う。ただし、人生における努力とは、最終的には自分が幸福を感じられるためになされるべきであり、運命に抵抗することを目的とする努力は、その人を幸せにはしないと思う。それが「無駄な努力」というものなのだと思う。
 就職できない、結婚できない、といったその人の人生の「人並みよりも劣る部分」については、決して無駄ではない努力をした結果、その人にはどうすることもできない運命だったのかもしれないのだから、その人に対して「あなたの人生がダメなのは、努力が足りないからだ」的な言い方をするのは軽率であり、あまりにも想像力に欠けていると思うのだ。
 私は、自分が他人の人生に対して何かを言わなければならない場面に遭遇したときには、そのことだけには注意を払おうとするようになった。
 
 これが、私が中学生の頃に「予測」し、その後の試練を経て「確信」に変えることのできた「宝石」のような人生哲学である。普段は石ころのように見落としがちだけど、実はその石が「弱き者に目を向け、自分の長所に驕ることなく、他人の短所を非難しない」というキラキラとした輝きを秘めた宝石の原石であることに気付く。当たり前だけど意外と忘れがちで、体に染みついた考え方にまではなかなか仕上がらない人生哲学だから、体得するのはまさに他山の石から宝石の原石を見つけるほど大変な所業だ。
 見つける目を養う近道は「苦労」である。よく「若いうちの苦労は買ってでもしろ」と云われるが、あれには私は懐疑的で「買わなくてもいい無駄な苦労」があると感じている。だが、宝石の原石を見つけるための苦労はしたほうがいいと思う。単純に人に真心をもって接するようになれるからである。「苦労してまで真心を尽くす必要が果たしてあるのか」と敢えて疑ってみることもしたが、私の場合、やはり人生に真心はあったほうがいいという結論に達した。では、なぜ真心が必要なのか・・・つづく

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