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【古文】違うのよ あなたと私の 脚本は

 『伊豆の踊子』の無味乾燥な読書感想文に“再会”した折、私は高校生当時から変わらず、恋愛を題材にした物語に感情移入できない人間だったことを思い知ったが、全部が全部というわけでは無い。不幸で儚い恋愛に触れると、それが自らの境遇と重なり、逆に感情移入し過ぎて、滂沱たる泪と洟の後に暫し茫然とした時が流れる程に至る。
 例えば、映画だと『男はつらいよ』には全作没入した。あれだけのヒロインとあれだけの関係になりながら、必ず最後いいところで別れが訪れる。むろん見所はそれだけでは無いのだが、純粋な男の阿呆な片想いや岡惚れ、これだけで飯がすすむ。他におかずは要らない。比べて『釣りバカ日誌』――あの作品にも実は丁寧に恋愛模様が織り込まれているのである――には、ベースの設定が初めから夫婦円満だったせいか、そこまでの食欲が湧かなかった。
 例えば、宝塚だと『ベルサイユのばら』には今でも飯がすすむけれど、『ロミオとジュリエット』は1回観れば満足といった印象だった。どちらも「悲恋」の象徴のような作品なのだけれど、パーティーでパッと相思相愛となり直ぐさま教会で結ばれてしまうロミオとジュリエットよりも、身分の違いに悶えながら生涯一途にオスカルを支え続けたアンドレの俠気のほうが、私の胸を揺さぶったということである。
 例えば、朝ドラだと『マッサン』『まんぷく』『エール』といった固い契り一直線よりも、『瞳』『オードリー』『とと姉ちゃん』といったヒロインが独身のまま伉儷とは別の絆で頑張る姿を示した作品のほうが共感できた。古い作品でも同様だ。『マー姉ちゃん』への実らぬ恋慕に苛まれる不器用で誠実な均ちゃんあたりのキャラが大好物。その後、彼が道子と結ばれたシーンでは、心からテレビ画面に向かって拍手喝采した。尤も『マー姉ちゃん』の妹であるマチ子は、終生独身でありながら桜新町に暮らす日本一有名な大家族を生み出している。兎に角、伴侶との二人三脚が当たり前の如き台本には欠伸を禁じ得ない。「そう容易く恋愛を成就できない人もいる」「どういう訳だか結婚の縁に恵まれない人もいる」という現実から目を逸らさない描写に私は惹かれるのだ。例えば、漫画だと――しつこいな、もういいだろう。要するに私という人間は恋愛に対して悉くひねくれ者なのだ。
 だからなのだろう、例えば、昔話では『浦島太郎』が好きだ。
 
 「男の人生の成功パターンというのは、古典的に確立しています。スサノオは、苦しい旅を経て、ヤマタノオロチを倒し、クシナダヒメと結んで出雲の国の神となります。これは『ペルセウス・アンドロメダ型神話』と呼ばれるものです。ペルセウスは、美しいアンドロメダ姫との間に立ちはだかるドラゴンを退治し、彼女と結婚。ストーリーの終わりを『聖婚』とすることでペルセウスは英雄と称されます。」――業平先生の古文の授業は突拍子もない話題から入る。
 「若い男は苦しい旅を続け、幾つもの敵を倒すことで人格を形成。そして、一番強い最後の敵を倒して結婚となるのです。その敵とは何か?若い男性が女性と結婚する前にしなくてはならないこと――そうです、その通り、女のほうの親という壁を克服しなくてはならないわけですねえ。」――流石だ。千春さんは恰も始めから答えを分かっている様子でこの授業を聴いている。今日も麗しいなあ。
 「女にとって親とは『檻』であります。保護もしてくれますが、そこから飛び出すためには、自分も努力しなくてはいけないし、男の力も借りなくてはいけない。
 突然ですが、『浦島太郎』って超有名な御伽噺あるでしょ。アレって不思議じゃないですか。亀を助けたら、お礼に竜宮城に連れられて、乙姫と楽しい毎日を過ごしていたのですが、故郷のことが気になるから一旦帰ることにした。けど、物凄い歳月の経過に絶望して、開けちゃダメと言われていた玉手箱を開けちゃうと、お爺さんになった。無茶苦茶ですよね。何か周囲の色々なものに振り回されちゃった男の人生です。こんなことになるくらいなら、始めから亀を助けなければ良かったのか、そうすれば漁師として母親と平穏無事に暮らせたのか、人生を狂わせるきっかけとなった過去の己の親切心を寧ろ後悔したくなるような筋書きです。
 えっ?お爺さんになってしまったのは、玉手箱を開けた罰?つまり『約束は守りましょう』という子供達への教訓?う~ん、着眼点は外していないのですが、本作はそんなに単純な物語ではありません。君達、つい先程の僕の話、聴いていました?男の人生の成功パターンは?」――流石だ。千春さんは恰も始めから答えを分かっている様子でこの授業を聴いている。「そうです。これは男の苦しい旅路なのです。太郎も家に帰った時の孤独に耐え忍んで、玉手箱を開けずに苦しみを克服したならば、それが海神に認められ、常世の国へ戻り、乙姫との結婚生活を送れた筈だったのです。ところが太郎は負けてしまった。『浦島太郎』というのは、女の親を倒すことに失敗してしまった男の悲劇を伝えているのであります。」――まっ、マジ?これって、そういう噺なの?
 私は激しく動揺し、自分自身が太郎になる、則ち「男の人生の失敗パターン」に陥る確率について検討していた。が、忽ちその可能性は極めて低いと算定した。根拠は明白だ。私の場合はきっと逆なのである。女の親御さんに気に入られることはあっても、本人にその気が無いことを表明されて幕が下りるというストーリーなのだ。一番強い最後の敵を先に倒し終えている筈なのに、肝心な女のほうが「檻」から飛び出そうとしない。何故なら私が理想のタイプの男性では無いから。う~ん、これは太郎の何倍も傷付くパターンだ。これなら、太郎の人生のほうが何倍もマシだ。――そして、勉強はあまり出来なくても、自分のことを分析する能力はウルトラ級だったこの高校生の予言は見事に的中。約20年後、30代後半になってもなお独身の私を見かねて、友人の両親が強引にお見合いを勧めてきた。何とお相手のお母様も愛娘の幸せを心から祈った結果、この人なら申し分ないと太鼓判。しかし、お相手本人による写真選考で落選。会ってもくれなかった。わざわざスタジオで撮って頂いた私の写真1枚で「中止」。もはや「破談」以前の次元である。「何となく話がトントン拍子すぎるなあ」「何か相手方に提示すべき情報を忘れている気がする」と勘付いた矢先のことだった。勘付いていたくせに、実際に勘が当たると傷付いた。
 その昔、相手の親の反対を押し切ってまで愛を貫いた男もしくは女を讃える美談は数知れない。是は是で救われない世の中だったのだろうけど、それも今は昔のこと。相手の親が賛成しているのに愛が実らない男もしくは女って、もうこうなると何も救われない。昔より酷くなっている。残るのは疲れのみ。でも、まあ疲れてばかりも居られないから、遣る瀬無く、独り身でしか味わうことの叶わない幸福の“果実”を皮の“苦み”まで含めて総て搾り尽くすのみ。好きな時に飲み、好きな時に寝て、好きな時に自慰する。たかがこの程度の自由だけれど、それでもこの果汁が病みつきになって、やがて「結婚もう結構」となる。が、これは私が本来飲みたかったジュースでは無いのだから、虚しさは生涯付き纏う。「浦島くん、君の人生が羨ましいと感じる男も此処に居るんだぜ。君はたった一度でも乙姫様っていう最高の彼女をゲットしたじゃないか。親御さんのハートを掴んでも、それが男の苦しい旅の終わりとは限らないパターンもあるんだぜ。」と呟くと、私はもう涙も出なかった。「男は容姿よりも中身だ」なんて吹けば飛ぶような噓っ八――胸の中を鈍痛が抉った。
 然は然りながらである。爺さんになるまでの経緯にこそ違いがあれども、鯔の詰まりは「意中の女性と良い線までは進むのに、何らかの事情で不成立になる」「平凡に暮らしていたのに、ふとした出来事がきっかけでトラブルに巻き込まれる」というファンデーションが、太郎と私には共通している。よって、この日をもって私は『浦島太郎』に絶大なる親近感を抱いたという次第である。
 
 「さあ、ここからが本題ですよ。例えば、『神話』と『神話以外の物語』の違いって何だと思います?明確な答えは無いのですけど、『神話』というのは神様の御話、人にとって大切な信仰に関わる御話ですから、客観的な価値があり、私たち読み手は必ずその価値を見出さなければならない。則ち神聖にして冒してはならない作品です。本来、文字というのは記号に他なりません。物語とは、法則性をもった文字という記号の羅列です。記号の理解できる者同士が同じ作品を読めば、共通する認識に辿り着くことになる筈です。
 ところが、読者というのは無責任に勝手な解釈をします。その理由の1つが先入観です。例えば、『昔むかし、或る所に』で始まる物語を読み始めた瞬間、私たちはついつい『これは子供向けに何か教訓を伝える御伽噺だろう』と推測しがちです。本当はこの後、泥沼の不倫劇が展開するかもしれないのに、です。ややこしいことに、作者の側のほうが読者の先入観に期待する場合もあります。その期待が懸かっている作品は『神話』に多いように思います。つまり、読者というのは『この話は、こうだから、こう言いたいんでしょ』という前提で物語を読みがちだという特徴をもともと有するわけですから、ましてや才能のある者、頭脳の明晰な者が記号を解読すれば、常に正しい予備知識と結合して、物語の解釈は1つに絞られる筈だろ、作者の意図と合致する筈だろ、それが常識だろ、という期待です。
 でも、人間って、悪く云えばそんなにお利口さんには、良く云えばそんなに単純には出来ていません。それに、物語をどのように解釈するかは読者側の自由です。最初から物語それ自体に価値が存在するわけでは無く、読者が読むことによって様々な価値となるのです。主語を変えましょう。教訓は物語の中に隠れているのでは無い。私達が物語から感じたものが教訓なのです。そんな自由を認めちゃう作品は『神話以外の物語』に多いように思います。
 文献として最も古い『浦島太郎』は、万葉集にまで遡ります。古事記・日本書紀と同世紀に編纂されたものであり、もはや神話です。神話であるにも拘らず、さっきの君達の解釈は作者の意図――まあ、これとて疑わしいものなのですけど――『男の人生の失敗パターン』という共通認識には辿り着きませんでしたよね。せいぜい『約束を破った因果応報』までしか捉えられませんでした。
 だったら『本作品は○○○というテーマを取り扱っています』と最初から宣言してしまえばいいじゃないか、って思いません?でも、これがねえ、どうやら不可能なんです。何故でしょう?」――流石だ。千春さんは恰も始めから答えを分かっている様子でこの授業を聴いている。
 「そう、最も古い『浦島太郎』にも『○○○というテーマを取り扱っています』という答えは書かれていないからです。だから、さっきと矛盾した事を云いますが、『浦島太郎は男の悲劇を伝えている物語だ』という解釈も、『学説』ではありますが、『正解』ではありません。『正解』は分からないのです。
 このポイントを理解するには『聖書』が大変参考になります。『聖書』というのは『神話』そのものです。聖書が出来上がった際に、当時の人々がこれをどう読みどう受け止めたのかということが度々問題になります。聖書には『旧約聖書』と『新約聖書』がありますが、前者がユダヤ教です。後者はキリスト教がユダヤ教を土台にして生まれ、世界各地への布教を試みた歴史を物語っています。この辺りのことは当然ながら世界史のエカチェリーナ先生がお詳しいですし、訊いてみるといいでしょう。ユダヤ人が最も大切とする『過越の祭り』の由来である旧約聖書の『出エジプト記』とか、とっても面白いですよ。エジプトの奴隷だったイスラエルの民が、モーセが真っ二つに割った紅海の上を歩いて脱出に成功したって話は有名ですね。
 
 イエス様の死後に作られた新約聖書には、4つの『福音書』が収められています。そして4つの福音書にはそれぞれ作者の意図が練り込まれいると云われているんですね。だって、イエス様ご自身が聖書を執筆したわけでもなく、ましてや『この部分は○○○というテーマを取り扱っています』という答えを書き残したわけでも無いからです。
 まず『マルコによる福音書』。これは教会の中の人々に向けて書いたと謂われるものです。イエスは『もうすぐこの世の終りが来るぞ』と言って死にましたが、待てど暮らせどその日は来ません。信者達は自分達の信仰に自信を失い、イエスを疑いはじめますが、最終的には受難の瞬間に彼が神であることを確認します。そこで『イエスの傍に居た弟子達だって彼の力を信じられなかったのだから、今イエスを目の前に見ることの出来ない私達が彼を信じられないのは尤もだ。しかし、私達も黙ってついていけば、いつか受難の瞬間に立ち会えることは分かっているのだから、信じようではないか』といったことを呼び掛けています。『受難』というのは、人間の罪を背負い身代わりとなって神の生贄となった行為を指したキリスト教の用語です。この辺りのことは当然ながら倫理の大仏先生がお詳しいですし、訊いてみるといいでしょう。
 次に『マタイによる福音書』。これはユダヤ教徒の人々に向けて書いたと謂われるものです。ユダヤ教との宗教抗争の中に生まれたものですから、イエスの神格化を図っています。『教会の指導者つまり弟子はイエスと同じように超人的な事をする有資格者なんだ。弟子ですら一般人とは違う凄い人間なのだから、イエスはもっと凄い!』という見せ方に重きを置いています。
 3つ目が『ルカによる福音書』。これはローマの人々に向けて書いたと謂われるものです。ローマ人というのはギリシャの文化を受け継いでいる合理主義者です。よって、海の上を歩くといった非現実的な部分を削除しています。また、被支配階級の宗教を支配階級に認めてもらうため、『キリスト教を信仰することは倫理的生活を送るということなんですよ』と呼び掛けています。ここまでの3つの福音書が『共観福音書』と総称されているものです。
 4つ目が『ヨハネによる福音書』。これは世界中のあらゆる人々に伝導するためのもので、ここに来てキリスト教は『神学』という1つの学問となりました。『共観福音書』とは異なり、イエスが神の生贄であることを強調したいがために、イエスが人々に与えたパンはイエスの言葉であるとして、『過越の祭り』と関連付けたりしているんですね。
 さて、4つの福音書それぞれに“色”が在る事は理解されたかと思います。これら福音書がイエス・キリストの言行録である事には間違いないのですが、それと教会の唱える教義(ドグマ)とは、厳密にいうと別物だということです。解釈によって宗派も分かれました。カトリックはドグマを重んじ、そのドグマを深く知るために聖書を読みますが、プロテスタントは、信ずべきものはドグマよりもイエスの言葉であるという視点で聖書を読んでいます。どちらが正しいとか、どちらが良いとかいった問題ではありませんし、こうした僕の解説や授業内容ですら細かい指摘や批判を受ける可能性がある程、聖書の解釈を巡る問題は複雑です。いずれにせよ、私達が読んでいるのは『イエス伝』では無く、正確に表すと『キリスト像』なのだというポイントだけは飲み込めますね。
 このクラスには45名の生徒が居ます。1つの作品を45名が読めば、45の作品が出来得る。45個のドグマが出来得る。45名の浦島太郎が出来得る。物語の作者とは、作者に非ず、常に読者なのであります。これが本日の結論です。」――業平先生の結論が出たところでチャイムが鳴る。いつも時間ピッタリな解説だ。
 
 オトナになった私は感じる。そうだよな。朝ドラの解釈とて聖書同様十人十色、視聴者の自由だよな。しかも斯様な私とて十年後は好きなおかずの傾向が変わっているかもしれない。そもそも『本作品は○○○というテーマを取り扱っています』と最初から宣言した朝ドラなんて違和感があるし、だいいち視ててもつまらないよな。
 視聴者の数だけドラマがあるのは、視聴者の数だけ人生があるから。他人と自分とは違う主人公なのだ。ドラマとは、自らの人生に大いに参考にはすべきだが、自らの人生と比べて一喜一憂するものでは無い。これって、当たり前のことだけれど、しばしば忘れてしまう。現に高校の古文で人生に正解が無いことを学習しているのに、今の私がそれを忘れがちだ。
 そんな反省も込めつつ、ドラマに対する私の一喜一憂を敢えて蛇足する。ヒロインが独身のままでいる演出のほうが共感できると述べたことに偽りは無いが、冷静に振り返ってみれば、ヒロインが結婚した場合であっても『カーネーション』『スカーレット』『おちょやん』といった、その後の夫婦の絆の綻びをも含有した作品は、私の食欲を刺激した。まったく私という人間の歪曲した恋愛観は国民栄誉賞級だ。
 蓋し、夫婦愛の姿がどっぷり染み込んだ作品であっても、『おしん』は別格。あれは最終的にヒロインの夫が自決している。凄絶なのである。他にも、川村は初ちゃんと幸せになって欲しいと私も祈っていたが殺されてしまう等、女の苦労に加えて男の運命をも酷烈に映していた。なのに、色々な人が何だかんだとしぶとく生きている。あんな風に不幸を活き活きと可視化したドグマ、いやドラマは他に類を見ない。長谷川町子と渥美清の没後の国民栄誉賞も当然であれば、橋田壽賀子の生前の文化勲章も当然のこと。
 もはや『おしん』すらテレビの世界では古典の領域に属するのだろうが、そう考えると、私は浦島太郎の時代から昭和・平成・令和に至るまで数多の素晴らしき“古典”に囲まれているわけだ。私のドラマにヒロインなんて、登場するだけ厄介というもの。数多とは言えないが、それなりの数の“古典”に触れながらそう心得たのだから、彼女なんて居なくても、私はヘッチャラ平気に決まっている。ごちゃごちゃ云わんと愉快に生きていくがよい・・・つづく

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