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なぜ日本の男は恋愛やナンパ下手か。

こんばんは。今日もお疲れさまです。

筆者は、かつては日本に住み、日本人と共に生活しながら、一個人としてSNS運営や管理をしたりしていた、今では個人を対象にした心理相談の傍ら、「日本人の心理」についての研究をしているわけではあるが、様々な経験を通して、日本人と欧米人との如何ともしがたい圧倒的な差、いや文化の違いだから当たり前だろうと言われればそれまでだが、極論を言えば、「日本vs世界」とはっきり区別できるくらい、彼らの「特殊性」とも呼ばれる〈日本的なるもの〉に強い好奇心を抱いた。その個人の心の中に社会構造や文化、言語のあり方が影響していると感じることが大きい。

日本には対人、視線恐怖と呼ばれる病が存在する。ある社会において、質的に、あるいは量的に目立って特徴的な神経症があるとしたらば、それは人間の普遍性を超えて、その社会に特有の精神構造を知る、重要な手がかりとなる。

わたしはこの神経症に大変興味を引かれて研究し、対人恐怖の患者、日本特有の神経症を通して、日本人一般の行動や心を理解する試みをした。対人恐怖とは「恥」の病ではある。

これは単なる日本の男に対する批評ではない。

結局のところ、日本人の恋愛下手が、現代の日本社会、政治、外交、経済、社会、コロナ禍も含む、多くの混乱の根底にあると考える。

対人恐怖と恋愛下手はどう関係するか。詳細は省くが、下記を参照してほしい。

記事を読み進めるごとにストレス値が高まって早死にするかもしれません。あらかじめご理解ください。

前回は、なぜ日本の男は「従順女」(コントロール系男が多いか)を好みがちか。について。

複数の日本の男(と思われる)から誹謗中傷コメントがまいにち届いて大変ですが、炎上でメシ食ってるのでウェルカムです(笑)

今回は、日本の男がグローバルの恋愛市場で張り合うにはなにが足りないか、についてです。

ごめんなさい、はっきり、言っちゃいます!残念ながら、日本の男は、恋愛やナンパが下手すぎます。


「草食系」だと世界的に有名ではあるが、とくに、外国人が日本人と付き合うと日本人の恋愛下手が表出しやすい。

かつては「お見合い結婚」の前提があったから日本人の恋愛下手は表に出なくかったが、それもなくなると、「自由恋愛」はどうやら向かないらしいことがあぶり出されてきたようだ。

(若者の恋愛離れの現象が典型だが)

「自分の気持ちをなかなか言ってくれない」

「はっきり気持ちを伝えてくれない」

「なにを考えるのかよくわからない」

「感情表現が下手」

「不器用で全然リードしてくれない」

「しつこい」

「デートがワンパターン」

「話がつまらない」

「ウジウジ、なよなよしてる」

「素直じゃない」

「女性の扱いに慣れてない」

「初めから愛情を求めてる」

「恋愛をゲームとして楽しむのが下手」

「クレイジなー女を嫌う」

「美味しいコロッケを作るのが上手な綺麗な奥さん」狙い。

など外国人からよく指摘されます。

また、Japanese men are feminine =日本男は女っぽい、可愛らしい男の子、という有名な言葉がある。一般的に、アジア人男性は、まあ、これは欧米諸国によるアジア侵略や根強いアジア人差別、同性愛者差別などに関係しているけれども、「弱々しい」「ゲイ」「女々しい」と誤解されがちでもあるが。

ただ、これらは、日本人の人間関係に対する浅い理解からくる表面的な見方にすぎません。


日本の男の恋愛やナンパはどこがダメか。いや、そもそもなぜ彼らは恋愛やナンパ下手か。

具体的に述べます。

一言で言えば、「母性ー母なる女ーに保護され、父になりきれない、未成熟な永遠の少年だからです」


日本のサブカルー文学アニメーを一通りみるとわかったのが、一様にして「女」に依存して、その「母なる女」が見守る「インチキ主人公」が基本ゲームです。

日本の男は、「お母さん依存症」です。


相手(母なる女)から気に入られようとして、喜ばせたい、認められたい、好かれたい、ほめられたい、と「母なる女からの承認」に右往左往しがちです。

相手の言動にいちいち一喜一憂してしまう。


社交術の伝統を欠いた日本人が、「相手の期待に応えられるか」というレベルと、「相手の期待に応える度量があるか(期待通りの行為をなし「得る」か)というレベルを区別できないことは、「恋愛、ナンパ下手」にも関係します。

既に述べた通り、日本人は相手の期待に応えよう(喜ばせよう)する。そして、「母なる女の子宮の外の世界」(ある想定、ある枠内からはみ出る)に出る可能性に脅えます。

当然ながら、対人恐怖とも関係がある。

しかし、社交術のポイントは、自分の価値、度量や器量があるところを相手に示せれば、成功。

その上で、相手が自分を受け入れるかどうかはもはや相手の問題だと割り切ることが西欧流の誘惑(ナンパ)です。そうするこどで、相手の反応にビビる必要を、免除されるのです。


これらの例に明らかですが、「未来の予期」を踏まえたとしても、人間の行為は、本来「未規定」です。つまり、どうなるかわからない。

母なる女の子宮の外の世界にある。

社交文化を持つ国ではこれらの「異質さ」に混乱したりしません。

社交術の観点から言えば、愛の告白には、相手を喜ばせて首を縦に振らせることに意味があるのではなく、自分には相手を喜ばせるゲームをする力があることを示すこと、です。

別の言い方をすれば、社交の目的は、自分に対してYESと言わせることではなくー母なる女から承認される、私という個体を承認させることではなくー自分が「一人前の人物」を示す所にあります。自分にはゲーム参加資格を持っている事実を示せれば、社交は成功です。

日本人のナンパ師はこの社交の本質を踏まえない。

だから、「失敗」=母なる女からの拒絶、と判断して、彼らは「ひねくれ」ます。なんせ精神的には、日本の大人は「子ども」ですから。

振られたり、別れた後の態度の豹変ぶりが象徴です。

SNSでも「草食系」と呼ばれる日本の男からのメッセージの暴言はよく目立つでしょう。



話を進めます。


外国から来た女たちは、日本の男を評して、「頼りない」「子供っぽい」「男らしくない」と言う。わたしもそう感じる。

その主張に対して「そんなことはない。妻に対して威張っている亭主関白には、父親の威厳があるではないか」と反論したくなる人もいるかもしれない。確かに「メシ!」「フロ!」と妻に命令する亭主関白は、一見すると偉そうではある。しかし、妻から見れば、亭主関白などは、自分一人では身の周りの世話が何もできない「大きな赤ちゃん」に過ぎない。

日本の男にとって、女、あるいは妻は、母親の代替物(母なる女)すぎない。


日本の男に大人は皆無で、幼児か、成人した幼児しかいません


不思議なことに、夫婦関係以外の、あるゆる社会集団においても「母なる女」(癒着・依存)を求めてしまう。

それが日本人特有の「身内びいき」、よく言われる「ウチトソト」、「本音と建前」である。

コミュニティ内部では親密な人間関係を築きながら、よそ者に対しては、引っ込み思案で無関心な態度を示す。


母なる女(母性)は「閉ざされ」世界。

自分の子宮胎内の世界に子供を置こうとする、子供を親に「癒着・依存させる」性である。


一方、父なる男(父性)は「開かれた」世界。外の世界に子供を置こうとする、相手(子供)に対して親からの「分離・自立を促す」性である。


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母性は、「相手(子ども)を分離、独立させず、何もかも対象を包含する、包み込む、抱きしめて、子宮胎盤に閉じ込めてしまう」のです。


我が子(相手)である限り、すべて平等にかわいいのであり、それは子供の個性や能力も関係ないのだ。

母親は、子どもが勝手に「子宮の外の世界」から離れることを許さない。

それは子どもを守るためでもあるし、「母子一体」という「秩序」の破壊を恐れるからでもある。

このようなとき、時に動物が母が実際にすることであるが、母は子どもを事実上、飲み込んでしまう。

日本人のあらゆる他者依存的な人間関係はこのことが根本的な要因であると考える。

それは対象との一体感であり、感情移入、絶対化であり、母なる女への、対象への癒着、依存である。


日本の男の恋愛下手の背景として、日本社会の絶対権力者が「母なる女」であること。そして、内面の母を否定して、マザコンから卒業しない限りー母性からの解放ー日本の男に未来はない。

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