世界の中心で愛を叫ばれたい
引越しが近づいてきて、
荷造りに精を出している今日この頃
久々にドラマ版「世界の中心で愛を叫ぶ」の再放送がありました。
初見は確か小学2、3年生だった気がします。
だからこそ十何年ぶりな感じでとても懐かしいな、と感じていました。
綾瀬はるかも山田孝之も若い•••笑
そんな感じで見始めたのですが
少しずつ何かもやがかかったような、私の中で「見たくない」と感じ始めるんです。
彼と一緒に見終わって、お互い個人の自由時間を過ごして
布団に入ったのに寝る時までモヤモヤ
挙げ句の果てには何か線が切れたように涙が出てきました。
その日は仕事でトラブルが発生して、
引越しの荷造りについて「大丈夫?間に合う?」と心配されて
涙が出てきたのは心も体も疲れていたこともあったかと思うけど
それでだけではない「何か」がありました。
翌日、仕事に向かう最中
過去の自分を思い出しました。
***
小さい頃の自分といえば
体を動かすことばかりしていて
声が異様に煩くて
なんだかジャイアンの女バージョンみたいな、そんな子だったのを覚えています。
そんな時に見た「世界の中心で愛を叫ぶ」
明るく振る舞っていた彼女がどんどん弱くなっていく姿
そして最後は亡くなってしまう
そんな姿を見ていて第三者視点からだけれども悲しくて
当時、親の目を気にしながら泣いていたのを覚えています。
でも
作中でも確か彼女の葬式で彼女の死を悲しむ姿
山田孝之が演じた彼が時間が経っても彼女のことを忘れられない姿
そんな姿を見て、不謹慎ながらも
こんなにも少し羨ましい気持ちがあったのも今更ながらに覚えています。
当時、小学生の頃。
今もそうかもしれませんが、
「おしとやかで、細くて、可愛い」
そんな子が「モテる」「彼氏ができる」「周りに皆がいる」ような世界。
小学生の頃ジャイアンの女の子バージョンで
普段から「女の子」として見られることが「一切」なかった自分には
やはりキラキラして輝いていました。
持って生まれたものが違う
そう考えたら、そんなキラキラ人たちこそが
「世界の中心で愛を叫ぶ」の彼女のような存在で
それこそ「輝いている人」こそがこの世から居なくなった時
皆が悲しむ、その彼女であればいつまでも忘れられないのだろう
そう思い始めました。
それと同時に
「きっと私は最後、誰にも悲しまれずに死ぬんだろう。モテもしないから」
なんて考えるようになりました。
親と少しの間続けていた交換日記に
「私が死んだら悲しむ人なんているのかな」と書いたのを
今でも覚えています。
確か、お母さんからは
悲しんでくれる人はいるよ、なんて返してくれたような•••
少し泣いていたかもしれません。
今思えば、かなり親にたいして親不孝なことしているかもしれません。
私が親だったら泣いちゃう•••
***
そんな過去を不意に思い出したから
ドラマを見るのが辛く感じたのかもしれないのかな、
なんて朝の通勤時間にふと思い出しました。
希死念慮が他人よりもある私。
1人の時、夜眠れない時、生理前の鬱々としてしまう時
やっぱり「私が今居なくなった時、誰か悲しんでくれるのだろうか」と感じてしまいます。
いつからこんな気持ちが芽生えたなんて考えてもいなかった。
でも今回「世界の中心で愛を叫ぶ」を不意に観たおかげでそのきっかけが
思い出せたような気がしました。
「観たくない」と思ったのは、きっと過去の自分が何かを隠したかったのか
それとも過去の私が今に何かを伝えたかったのかもしれない。
観ることができたのは偶然ではなく、必然だったのかもしれない。
希死念慮があったっていい。
でもそれ以上に目の前の人たちと幸せに過ごしたい。
インナーチャイルドというものなのかはわからないけど
その当時の自分を撫でてあげたくなった、そんな2日間でした。
世界の中心で愛叫ばれたら最高だろうなぁ・・・(ぼそっ
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