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笑えないセンシティブの流用

わたしのタイムラインでは、センシティブについて
表現の自由と配慮が議論されている。

元々は、藤原華さんが主催なさった、
『なぜ、私は書くのか』コンテストにおいて
落選者なぜ落選したのか、なぜ審査員から読まれなかったの説明が発端だ。


わたしは去年まで、noteのある文学サークルへ所属していた。
普段は文芸や哲学を語るなどの場所で、
その日の議題は珍しく『投稿されたnote』についてだった。



議題のnoteの内容は、
ネットで知り合った男女が実際会うことになり、男性の家へ女性が宿泊するのだが、宿泊から半年後に女性は警察へ性被害を訴えた。
しかし不受理になった。

男性は女性へ謝罪をしたが、
解決に至らない様子が見ていると分かる。



不本意な処遇の女性noterは、記事の冒頭から、
男性の顔写真や本名、居住地などを掲載しており、
個人情報の流出はプライバシーの侵害で、違法だ。

その場にいたメンバーは女性5人。
性的被害を受けたら傷つくのを前提としている。

議題を出したAさんは、
「警察が取り合わなかった事件へ私恨があっても
加害者の個人情報を出すべきではない」

ももまろの意見は、
「個人情報から、男女のお子さんが通う学校の保護者も記事を閲覧している可能性があるので、イジメに繋がるのではないか。
お子さんがイジメに遭い自死したらどうするのか」

サークル主催者のCさんは、
「被害者の気持ちは分かるがやり過ぎは否めない」

Dさんは、
「被害者の気持ちは分かるので、
加害者の子どもが自死しても構わない」

Eさんは、相槌のような戸惑いを感じた。

被害者の記事は加害者を配慮すべきだったのか、
読者へ配慮する場合はどう配慮するのか、
わたしも過去に騒動を起こした当事者で、
今でも課題になっている。

Dさんのように、無関係な子どもが自死しようが我関せずの人もいて、
いずれにせよ、被害者が加害者を制裁するのをヨシ。人が死んでもいいとする人からは表現の自由は寛容なのがネットの実情。

Aさんやわたしには納得し難いものがあった。

刑事事件になってないプライバシーを侵害した一方的な意見を投稿し、加害者家族にまで危害が加わる可能性がどうしても腹落ちしない。

わたしは該当する被害者の記事を読み、
男女の密室で行われた出来事の責任が家族にまで連座制を適用するのかと気分が悪くなった。

エロやグロより見たくなかった。
「無辜のお子さんがイジメに遭ったら、
取り返しがつかない」想像から痛みが走った。

話題になっているから、何があったか知りたい、
そのような理由で閲覧したのを後悔した。

では、どう読者に配慮すればいいのか。

noteは次ページがないので、クリエイター名の下からすぐに記事へと続く。

記事の冒頭へは閲覧注意を記載し、かなりの幅でスペースを空けたのちに加害者の個人情報を掲載すればいいのか。

藤原華さんがおっしゃるように仲間内のグループチャットで展開するのがベストか。

このようなケースの対処はnote運営が許諾しているのだから、個人情報を掲載したとて問題がないのかもしれない。

最終的な判断や権限は運営にある。
誰かが傷つくのは二の次だと心に留めておいていいように思った。



コンテスト中間発表の余波が見られた。

©️藤原華さん

記事の冒頭へ但し書き(警告)があれば、なんでも表現の自由になってしまう解釈があり、
あるnoteでは、
「メンタルが弱い人はブラウザバックをしてください」の真下から、
画面いっぱいに「死にたい」が無数に書き込まれていた。

これが読者への配慮かと考えてしまった。

警告の真下から無数の「死にたい」があれば、イヤでも数行は目にしてしまうからだ。

その他は、冒頭の警告に続くのが、
名指ししないnoterへの悪口や誹謗中傷だった。

©️藤原華さん

悪口や誹謗中傷は、明らかに警告の悪用であり、
警告すれば何を書いても良いと免罪符を与えた形だ。
モラルとアンモラルが同居する記事へ、配慮のバランスのなさを感じざるを得ない。

だからといって、無数の死にたいや悪口を見せないために、有料記事にて販売するのも悪徳だと思う。

わたしやわたしのタイムライン上は
エッセイや小説、詩などの『創作』に関して想定し、『センシティブ』を議論している。

藤原さんが言いたいのは、
センシティブな話題に対しては、さまざまな背景や感情を持つ人がいるため、配慮が必要で、
警告を出すことで読者が自分のペースで内容を受け入れたり、必要に応じて対処したりできる。

特にトラウマやストレスを抱えている人々にとって大事な配慮で、読者へ選択権を与える。
例えば、作品の冒頭にこのような一文を加える。

「以下の内容には、センシティブな話題が含まれています。ご自身の状態に合わせてご覧ください」

「この記事では、トラウマ・メンタルヘルス、または暴力に関する話題が含まれています。
心配な方は無理に読まないことをお勧めします」

「もし創作が不快に感じられた場合は、
信頼できる人や専門家に相談することをお勧めします」

小説以外の場所へ文言を使い、読者に対する配慮を示すことで小説の中に直接書くのではなく、
作品の冒頭、イントロダクションで警告を入れる。

読者が物語に入る前に内容へ対する配慮を示すことで、安心して読んでもらえる環境を作りし、
作品の流れを損なうことなく読者への配慮を示す。



わたしは自己責任の考え方もしている。
作品に対する受け取り方は人それぞれになるからだ。配慮が不要だと感じる人もいる。

最終的には、作者自身のスタイルや作品のテーマに応じて判断することが大切で、
自分の作品にどのようなメッセージを込めたいかが重要になってくる。

わたしは昨夜、自分自身が閲覧注意の人物だと提示した。

または、あらすじの最後に「この物語にはセンシティブなテーマが含まれていますので、ご注意ください」
注意を書いておくのもアイデアかもしれない。

読者が内容に対する心構えを持つことができ、安心して読んでもらってねと、
藤原さんは仰っていると思う。



創作勢は配慮の部分について引っかかている。
創作においては、自分の表現やメッセージを大切にしたいという気持ちがあるからだ。

配慮をどうするかは書き手のスタイルや意図によるし、必ずしも必要ではないと思う。

配慮が作品の本質に影響を与えると感じるなら、無理に入れる必要はないのではないかと。

作品をどう表現し、どんなメッセージを伝えたいかを考えながら進めていくのが大切だ。
わたし達は葛藤しながら思考している。

しかし、警告を早々に使用して表現の自由を謳歌するのは「無数の『死にたい』を羅列」「名指ししない悪口」の人たちという、笑えない影響があった。