見出し画像

ショート: カタルシスのためにある

『月の耳』は、玲子の家で
クロワッサンの表面を指すらしい。

玲子の母親が言っていたのを、玲子は
全国共通の言葉だと信じて疑わなかった。
昔、そんな話で盛り上がった記憶がある。

玲子の母親は約1年前、70歳の若さで、
地球からどこかへ逝ってしまった。

玲子は感受性豊かな子で、40代になっても
ビルの解体や雨に濡れた鳥を見ると涙ぐみ
ちょっとした話題の映画に連れて行くと
全米より、全玲子がボロ泣きしている形。

しかし、玲子は母親の通夜や葬儀で、
住職や参列者などに会釈するなど、
しっかり者の長女を振る舞い、泣かなかった。


「瑠美ちゃん。あたしね、泣けないの」
クロワッサンの表面を渦巻くように解きながら
玲子は打ち明ける。

「本当の感情と偽物の感情
生きている大半はカタルシスのためにある涙
なんか、そう思えちゃって」

「そうなの?」

「うん。歳をとるごとに涙腺が緩くなるのに
母親が死んじゃって、1回も泣かないとか
普通じゃないと思うんだよね」

私が答えに迷うと、
綺麗にクロワッサンを分解した玲子が笑い出す。

「うちさ、これの表面を『月の耳』って言ってて
高校生のときに、みんながきょとんとしたよね
家に帰って、母親に抗議したら
『モダンな呼び方でしょ』とか悪びれないの」

笑う玲子はいま、
自分の感情を精一杯押し殺し、
本当は涙の出ない弔いをしている気がする。

1年前から蓋をしてきた箱を開けると
母親が亡くなった当時の古い悲しみから出てきて
最後に、玲子本人に出会えるのではないか。

私の口に拡がるクロワッサンの塩味が、
玲子の涙に思えてきた。

#シロクマ文芸部
#小牧幸助さん