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自分と他人の意図は異なる

『人を人として見る』

わたしに危害を加えた男性を人として見れず
警察に被害届を提出し
男性は傷害罪で逮捕された

男性にも親がいて、仕事があって
わたしのことを好いてくれるから
「可愛さ余って憎さ百倍」、なんて理解しなかった

万人に向けて、人を人として見るとは理想で
余程、達観した人物じゃないと
「人を人として見る」
「人を形として見る」に分けているように思う

冒頭のように極端な例ではなくとも
表面では分からない区別をつけながら
人は誰かを見ていると思う

例えば
「父親へは延命措置をしている」
このセリフを聞いて
自分の想いを相手へ投影して考えてないか

自分の主観で感じるに過ぎないことがあり
他人である、相手の真意は分からない

純粋に父親の生命維持の希望か
相続を考えてのことか
社会的に、良く出来た親孝行者として見られたいか

仮に、相続や親孝行に見られたいなど
人を人として見てなかったとして

相手の真意が自分の気持ちと乖離した場合

それを理解する必要はあるのだろうか
相手の意図が自分の信念と異なれば
相手を責め立てる事由になるのか

逆に、父親の延命措置はしなかった
相手には経済的な理由や過去の私怨
父親本人の意思・希望
手を尽くそうにも現代医学に限界がある場合

特に過去の私怨があるとき
親を人と見れなかったら
それでも、相手を理解できないと責めるのか

自分が価値あるものと無価値なものは
必ずしも相手と一致しない

胸を張って
「父親から虐待されていたから看たくない」
「アル中のギャンブラーなんか知るか」
言わなきゃ後ろ暗いことになるの?

だとしたら、余程薄っぺらい人生を歩んだか
他者との関わりがなかったか
どんな前提を立てても理解は難しいよ
全方位の人々を、人を人として見るなんて

人を物なら可愛いわ
物には愛着があり、愛着がないものへも丁寧に扱う

人を人として見ないから優しく出来ることがある
親を親として見ず、自分に備わった慈悲
慈しみで接する

法規やこれといったルールがないケースで
価値観の違いを罰する他人は
なんの権利があって罰するのか

他罰的であるほど
頑なに自分の間違いを肯定し続け
他人の有り様を否定するのは
他人の為ではなく自分を肯定する為にある気がする