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二つの「砂の器」から感じる“腕力“〜橋本忍が生み出した松本清張の代表作

春日太一著「鬼の筆〜戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折」(文藝春秋)については、すでに書いた。読む前に見た橋本作品についても記録した。

本書を読んだ後、再見した作品がある。「砂の器」(1974年松竹/橋本プロ)である。橋本忍はデビュー作「羅生門」(1950年大映)以来、数々の名作を脚本家として送り出したが、そのキャリアの頂点と言えるのが「砂の器」である。少なくとも、「鬼の筆」を読むとそう感じる。

改めて観ると、本当に面白い映画である。ミステリー小説を原作とする映画にありがちな、必要以上に複雑な展開もなく、刑事役の丹波哲郎・森田健作の好演もあり、素直に楽しめる作品である。そして、橋本忍が<父子の旅だけで作る>(「鬼の筆」より、以下同)と考えたクライマックスは、菅野光亮の音楽と共に、心に沁みる。その背景にあるハンセン病の問題は、初見の時から痛烈な印象として残っており、私にとって「砂の器」は、“社会派ミステリー作家“の松本清張がハンセン病問題を描いた作品として記憶されていた。

かつて、そんな映画の印象をなぞるように、原作を読んだ。。。と記憶しているのだが、本当に読んだのだろうか。記憶が不確かである。

「鬼の筆」によると、清張原作作品を何本か世に出していた橋本に、松本清張が<今度、僕は初めて全国紙に連載を書くことになった。読売新聞なんだ。これを是非映画にして下さい。>と、野村芳太郎監督・橋本脚本コンビでの映画化を持ちかける。これが1960年に連載が開始される「砂の器」(新潮文庫)だった。

連載が終了し、橋本は<「いや、まことに出来が悪い。つまらん。>と評し、半分くらいしか読んでいないと語る。それでも、清張との約束もあり取り掛かる。そのためのアイデアが、<父子の旅だけで一本作る>というもので、文庫本上下二巻の長編にもかかわらず、<わずか三週間で脚本は書き上がった>。

その後、映画「砂の器」はお蔵入りの危機にも直面しながら、橋本は自らプロダクションを設立し、映画を完成させる。こうして生まれたのが名作、映画版「砂の器」である。

では<つまらん>と言われた小説版はどうなのか。物好きの私は読むこと(再読?)にした。

当然ながら、映画版に比べると小説ははるかに複雑である。小説の中の二人の登場人物を、橋本は一人に統合したりもしている。映画には登場しない小道具などもある。この大作を、よくもまぁあそこまで刈り込み、大胆に脚色したものだと、橋本の手腕に改めて感服する。

「鬼の筆」では、橋本の構成力を“腕力“と書いている。例えば、<「腕力」による「回想」型クライマックスの到達点が、『砂の器』における「父子の旅」だった>。

ひるがえって小説版も、松本清張の“腕力“を感じる作品である。ちょっとこれは無理筋ではと思う流れを、“腕力“でねじ伏せた感がある。

清張作品を数多く読んでいるわけではないが、「ゼロの焦点」「黒革の手帳」などと比べると、見劣りするように思う。もちろん、一読に値する小説ではある。ただ、「砂の器」は、むしろ映画版によって松本清張の代表作となったのではないだろうか。

松本清張と橋本忍、どちらの“腕力“が好きか。比べてみるのも一興だと思う



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