可能性の総量、幸福論。〜とあるヲタクの戯言〜
『人間ってのはさ〜。手の内にある可能性の総量が多ければ多いほど、幸せを感じる生き物なんだ。』
『それが実際に、叶えられるかっていうのは重要じゃない。』
急に神妙な面持ちで、テーブルを囲んでいたオタク仲間のおじさんが言う。
『だからさ、たとえ叶わないとしても、可能性をたくさん感じている僕たちは、人生勝ち組ってことさ〜。』
あごから首元にかけて豊かに贅肉を讃え、その大きな体の全てが叶うことのない「可能性」で膨らんでしまったかの様な中年のおじさんが、自分がただのオタクで、負け犬であることを棚に上げたまま、目をみはるほど威勢のよい遠吠えをしている。
『それを人は希望というのかもしれないね〜〜。』
(何言ってんだ、バカヤロー、コノヤロウ。バカ言ってんじゃねえよ。可能性だけじゃ生きてけねぇだろ。どアホがよぉお!)
と某大御所芸人の様な、ほとんど罵声に近い突っ込みを心の中で入れながらふと思う。
持っていたあらゆる「可能性」が0になったとき、ゼロだと感じてしまった時。たしかに、それを人は絶望と呼び。最悪の場合、自ら死を選んでしまうのかもしれない。
…この太っちょのオタクが言う事は、案外真理なのかもしれない。
僕たち人間は太古の昔から「可能性」というものをとても大事にしてきた。
古くは空腹に狼狽えながら、果てのないジャングルを歩いていた時代。ひたすら続く荒れた大地に湧水のある「可能性」。傍から貴重な栄養源となり得る、野生の動物が飛び出してくる「可能性」。
どんな絶望的な状況でも、わずかな『可能性』に投資して、生命を繋いできた。
もし仮に、自分自身が「可能性」を見出せなくなった時ですら。誰かが示してくれる「可能性」にすがりついて、少しでも希望を見いだそうとする生き物、それが人間だ。
それは、人類の生存の歴史のなかで、遺伝子レベルで形作られた種の保存のための本能なんじゃないだろうか。
誰に送られるでもない、レスに『可能性』を感じ。<有料>の握手で楽しくおしゃべりをして『可能性』を感じ。投稿されたツイートの内容が自分に向けられたものだと錯覚し『可能性』を感じる。
まったく幸せな人種それがオタクだ。しかし、手にしている可能性の総量は誰よりもたくさんある。
それは、僕たち現代人が、このニヒリズムに満ちた時代、豊かな絶望の荒野を歩くうえで見出した、生存戦略なのかもしれない。
だから僕たちは、いつもわくわくする可能性。現実を知ることよりも可能性を感じることに投資している。
『…シュポッ』(SNSのタイムラインが更新される音ーー。)
今日も推しが、僕に向けた私信をツイートしてやがる。
…まったく、仕方ない。(いいね、ポチッ)
そうだ。僕たちは、生命の生存方法として遺伝子レベルで正しいことをしているんだ。
ーーだからオタクであることは、なにも間違っちゃいない。
* * *
テーブルを囲んでいたオタクたちの話題は、いつのまにか 《偶然推しが職場の新入社員として入社して来た場合の対処法について》 にまで発展していた。
ありもしない可能性を想定し、真剣に悩み、喜び、一喜一憂し、激論を交わす。僕たちの手の内にある可能性の総量は、きっと無限大に程近い。
『なぁおじさん…俺たちって今、ほんと幸せだな。』
『??? そんなことより、君はどうするんだい〜職場の給湯室でバッタリ推しと会っちゃったらさ〜』
そうだ、僕たちの手の内にある可能性の総量は、無限大なんだ。
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