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夏目漱石『草枕』 (3)「能」と「松」 編 – 索引で読む文学作品

『草枕』を「読みやすくするため」の手がかりをさぐるために、作品全体の構成を見通せるよう前回は章別の索引を作成してみました。詳しくは、第2回の夏目漱石『草枕』人名・作品名 章別編をご確認いただければと思います。

『草枕』を「読みやすくするため」の手がかりとして、索引を作成しながら注目していたのは、一章の終盤にある次の文章です。

 しばらくこの旅中に起る出来事と、旅中に出逢う人間を能の仕組と能役者の所作に見立てたらどうだろう。

「非人情の旅」を成り立たせるために、「情三分芸七分で見せる」能に見立てることを思い付いた主人公の「余」は、次の二章序盤において峠の茶屋を商う婆さんを数年前に観た『高砂』に登場する婆さんに似ていると、早速その「見立て」を行っています。

『草枕』が読みにくいと感じる理由には、「余」の人生観や芸術論などの抽象的なモノローグ(独白)が続くことにもあると思います。「余」が抽象的に語る「非人情」ですが、それを成り立たせるのに必要な具体的な方法として「能に見立てる」ことを、この旅では試そうとしているわけです。
そうであれば、「余」が何をどのように「能に見立てる」ことをしているか、それを具体的に把握することは、「非人情」が目指すものが何なのかを理解することにつながるはずです。

索引 – 「能」(人名・作品名 章別編からの抜粋)

それでは、『草枕』にはどのような「能」が登場しているのでしょうか。
第2回の「索引 – 人名・作品名」から、能楽に関連する項目を抜粋してみると、次のようになります。

  [一]
能『七騎落』 1

観世元雅 1、能『隅田川』(墨田川) 1
  [二]
世阿弥 1、能『高砂』 2
能『羽衣』 [二]

項目数としても多いわけでもなく、その取り上げかたは必ずしも「見立て」に関連しているわけではないようです。
そして、三章以降には現れないのは注目すべきことかもしれません。

一章の2つは、次のような文脈で現れます。ここでは、あくまでも「能」にも人情的なものもある例として挙げられれているようです。

どうせ非人情をしに出掛けた旅だから、そのつもりで人間を見たら、浮世小路の何軒目に狭苦しく暮した時とは違うだろう。よし全く人情を離れる事が出来んでも、せめて御能拝見の時くらいは淡い心持ちにはなれそうなものだ。能にも人情はある。七騎落でも、墨田川でも泣かぬとは保証が出来ん。

能『七騎落』は、石橋山の戦いで敗れた源頼朝一行が船で落ちのびようとした際に、八騎(8人)は不吉の数との理由で、軍師・土肥実平がやむなく我が子遠平を下船させるという、父子の別れとその再会を描いたものです。
能『隅田川』は、ひとり子を人買いにさらわれ、京都から武蔵国まで尋ね歩く母親(狂女)の悲嘆を描いたものです。悲劇のまま終わる狂女物として、観世元雅の代表作とも言われる作品です。

二章の1つ目は、峠の茶屋の婆さんを「見立て」たものです。
宝生流の能『高砂』で見た媼(おうな)と生き写しのように似ていることと、その印象と長沢芦雪の絵で描かれるような山姥とを対比する形で、婆さんの顔を描写しています。

 二三年前宝生の舞台で高砂を見た事がある。その時これはうつくしい活人画だと思った。箒を担いだ爺さんが橋懸を五六歩来て、そろりと後向になって、婆さんと向い合う。その向い合うた姿勢が今でも眼につく。余の席からは婆さんの顔がほとんど真むきに見えたから、ああうつくしいと思った時に、その表情はぴしゃりと心のカメラへ焼き付いてしまった。茶店の婆さんの顔はこの写真に血を通わしたほど似ている。
画家として余が頭のなかに存在する婆さんの顔は高砂の媼と、蘆雪のかいた山姥のみである。蘆雪の図を見たとき、理想の婆さんは物凄いものだと感じた。紅葉のなかか、寒い月の下に置くべきものと考えた。宝生の別会能を観るに及んで、なるほど老女にもこんな優しい表情があり得るものかと驚ろいた。あの面は定めて名人の刻んだものだろう。惜しい事に作者の名は聞き落したが、老人もこうあらわせば、豊かに、穏やかに、あたたかに見える。

能『高砂』は、祝福の能の典型とされる世阿弥の作品。兵庫県高砂市にある高砂神社の相生の松(ひとつの根から雌雄2本の幹をもつ松)のように夫婦が一生添いとげるといった伝承があり、古今集和歌集・仮名序にある「高砂、住の江の松も、相生の様に覚え」という一節から着想を得て作出したものとされています。

二章の2つ目は、あくまでも比喩的な表現で取り上げられたもの。

誰か来て羽衣を帰せ帰せと催促するような気がする。

羽衣伝説を題材とした能『羽衣』は、人気のある演目で広く知られた能作品です。「能に見立てる」ことが頭にある「余」が、催促される様子の喩えとして思い付いた表現でしょう。

ここまで来て、もうひとつ「能に見立てる」うえでヒントとなるものが『草枕』には登場することに思い当たりました。
それは「松」です。
能舞台には、背景画として描かれている鏡板は老松があり、橋掛りには本舞台側より一の松・二の松・三の松と3本の松が植えられています。
そして『草枕』にも、松が多く登場することに気がつきました。

早速、『草枕』の「松」を索引にしてみます。

索引づくり

次のような方法でピックアップしてみました。

・項目は、松の木に関するもの
 本文に記載されているもので、同じものを表している場合は1つにまとめました。
・機械的に抽出し、出現順に並べます
 ()内は、簡単な補足説明です。

それでは、夏目漱石『草枕』に登場する「松」の索引をご覧ください。

索引 – 「松」

  [一]
赤松(禿山の山頂に見える一本松)
松(雨の奥から見える松)

  [四]
赤松(宿の部屋の庭に、山つづきの崖から斜めに生える松)
松(宿の部屋の窓から覗いて、寺と思われる山に多く見える松)

  [七]
三本の松(「余」が子どものころに住んだ家の庭に並んでいた松)

  [八]
松の皮(端渓硯の替え蓋として使われたもの)

  [十]
松(鏡池のそばにある大きな松)

  [十一]
松(観海寺の平庭にある一本松)

こうして索引をつくってみると、「能」そのものに関する項目のように前半だけに現れるわけではなく、『草枕』の作品全体の構成に関わるようなところで「松」が登場しているようにも見えますね。

「能に見立てる」

あらためて、「余」が何をどのように「能に見立てる」ことをしているのかを捉え直してみると、単純に「人情」から距離をとるためだけではないように思えてきました。

能作品が本文や注釈に現れるところに限らず、『草枕』には「能の仕組」や「能役者の所作」がいろいろと隠れているのではないでしょうか。
そういえば、世阿弥の『風姿花伝』には、「本説正しい」ことの大切さが繰り返し説かれています。

よき能と申すは、本説正しく、珍しき風體似て、詰め所ありて、かかり幽玄ならんを、第一とすべし。
—— 世阿弥、野上豊一郎・西尾実 校訂『風姿花伝』(岩波文庫、1958年)第六 花修云 より

次回は

最後までご覧いただき、ありがとうございます。
次回からは、『草枕』のヒロイン・那美さんがどのように「見立て」られているかを中心に、引き続き「読みやすくするため」の手がかりをさぐってみようと考えています。

第4回は、山茶始開(つばきはじめてひらく)ごろの予定です。

/三郎左

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