見出し画像

二重倫理粉砕?〜加賀乙彦『殉教者』(2016)

 今年2月に、加賀乙彦氏の『殉教者』を読み終えていたものの、感想を書きあぐねたまま、5月になってしまった。本書は2016年に刊行、当方が手にしたのは、2020年12月に文庫化されたものである。発刊時80歳を超えていた氏の労作である。

 テーマがテーマなだけに、まだ結論めいたことは無理だが、やっと何か記述しようと言う気持ちになった。

 これは、宗教者が主人公の物語である。

 江戸時代初期のキリスト教弾圧期に、豊後(大分)国東に生まれたペトロ岐部カスイが、エルサレムを経て、5年間の苦難の旅路により、ローマに辿り着き司祭になる。そして、日本に戻り布教活動に従事。物語は1639年までで、時系列的には1637年の島原の乱をはさむ。

 このように、主人公は心身ともに極めて強固な人物である。

 信仰を貫く強者、すなわち、当方とは対極にある人である。

 かつて、カトリック作家・遠藤周作氏は転び伴天連やユダなど、信念を全うできなかったり、師を裏切ったりする“弱き者”を殊更に描いた。

 マーチン・スコセッシ監督が、“Silence”で遠藤氏の『沈黙』を映像化したことも記憶に新しいところである(窪塚洋介氏が裏切り者を好演)。

 加賀氏の主人公には、強靭さが著しい。遠藤氏とは真逆である。

 当方、青少年期から意志強固な人間にコンプレックスを抱いてきた。キリスト教関係では、小学生時代、松田翠鳳(毅一)氏の『天正の少年使節』(1971、小峰書店)を愛読。サムライの時代にこんな子供がいたんだ、と驚愕したものだ。と同時に、とてもついて行けない、とも。

 加賀氏『殉教者』の文庫本解説に、姜尚中氏が書いている。

 「近代日本で『普遍性』を競い合った二つの系譜があるとすれば、それはキリスト教であり、マルクス主義である。それらは、聖俗の違いはあれ、ある意味で『国際性』をもち、内と外の二重倫理の壁を破砕するポテンシャルを秘めていた。」(P254)

 姜氏は、「二重倫理」に関して「日本という特殊性」を「普遍性」に対置させながら述べている。江戸期には、キリスト教が「二重倫理」の壁を打ち壊す潜在能力を有していたと言うことだ。

 姜氏の言うように、キリスト教もマルクス主義も、かつての「普遍性」の担い手は知識階級であって、この度加賀氏が、平民層出身のペトロ岐部をその具現者として登場させた意義は大きい。

 しかし、当方「普遍性」と聞いて、「はて?」と首をかしげた。

 普遍と特殊の二重性を乗り越える実践者が、インテリ階級であってもよいのではないか?

 知識階級は、「普遍性」の実現に挫折したと言う歴史的事実を前提にすれば、加賀氏作品の価値は大きい。

 それはよい。

 問われるべきは、なぜインテリが肉体的、精神的に敗北したのかと言う史実の追求ではないか。その検証が不十分なままでは、学問や研究、そして宗教は、繰り返し為政者や集団からの干渉や迫害を受けるのではないか。

 これは、知識人や世論が直面する現在進行形のイシューでもある。

 また、平民が普遍性を獲得する。これは、プロレタリアが支配権を確立する構図に似ていないか。

 それから、ペトロ岐部がなし得たものは、果たして「普遍性」の実現なのだろうか?

 遠藤周作氏の小説にも、拷問や処刑が執拗に取り上げられる。同様に、マルクス主義者の闘いにおいても、弾圧は肉体的苦痛を主たる手段とする。

 闘争に暴力はつき物と言ってしまえば、元も子もない。

 もちろん肉体的苦痛だけでなく、精神への加虐も伴うが、それらの苦難を乗り越えることが「普遍性」への道なのだろうか?

 「二重」と聞いて、ジョージ・オーウェルの“1984”を思い出す。オーウェルは、「二重思考」(新庄哲夫訳)と言う用語で、社会主義を揶揄している。

 「戦争は平和である 自由は屈従である 無知は力である」(ジョージ・オーウェル『1984年』新庄哲夫訳、ハヤカワ文庫、P24)

 戦中戦後を通じて、思想家が、文学者が、学生たちが、普遍と特殊の宥和などのテーマで、政治や社会と格闘してきた。「二重思考」に似た論理学も流行った。そして、オーウェルは、「二重思考」が支配するディストピアを描いた。

 「二重倫理」を粉砕する、あるいは「普遍と特殊を宥和する」決定版の思想は、未だに出現していない。多くの人々が「何とか主義」だとかと「何とか教」に拒否感を持っているからだろうか。

 弾圧、拷問、そして殉教。その先には、普遍的世界が。

 当方には、とても無理だな。透明で清らかな世界には、手が届きそうもない。

 ゴールデンウィーク中の子供の日、自宅でため息をつくのである。

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

この記事が参加している募集

読書感想文