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夏目漱石の『私の個人主義』に見る、漱石が見ていた明治末期

二週間くらいかけて、やっと夏目漱石の『私の個人主義』を読み終えました。

この本を手に取ったきっかけは、図書館でたまたま見かけたからなんですが。
この本、大昔の大学生時代に、友人が取った講義の課題図書だったんですね。人文科学方法論の。
たまたま見かけたときに、そういうことをふっと思い出しまして。

また『「暮し」のファシズム』や『走れメロス』を読んだ後で、「個人主義」あのを時代に言い切ることに、興味が湧いたんですね。

3行日記でもちょろちょろ書いていますので、重複する部分もあるかもしれませんが、ご了承ください。


あらまし

この本は、明治44年から大正3年にかけて、夏目漱石が行った五講演をまとめたものです。
100年くらい前に生きてた夏目漱石による、当時の日本人論、日本社会論とでも言いましょうか。
読んでいると、漱石の講演を直接聞いているような気分になるのですが、現代人の感覚と違う文言や認識が多々あり、しばしばその内容が理解できなくなったりもします。私だけかもしれませんが。

『道楽と職業』

夏目漱石による、100年前のキャリア教育でした。
大学を卒業した学位取得者が就職できず、浪人がたくさんいる……と知って驚いたのですが、当たり前か。
当時は、学位取得者をどう雇用するか、そのノウハウも使い方も手探りだったろうし。

漱石は、人のために働くのを職業、自分のために働くのを道楽としています。
職業は辛い、道楽は楽しい、と言ってしまえば、それは当たり前だろう! なんですが、漱石にとっての道楽は、科学・哲学・芸術なんですね。
研究職は道楽だから、金に直結しないから保護しなきゃいけない。
人のためにする仕事は、辛いかもしれないけれど、最終的に報酬となって自分に跳ね返ってくるから、結局は自分のための仕事でもある。
そういうふうなことが述べられているように読めました。

あと、裁量権の有無が楽しさに影響する……的なことにも、ふれられている気がします。
が、なにしろ漱石先生の講演にちょいちょいついていけなくなってますので、気になる方はどうぞ本文をご一読ください。

『現代日本の開化』

現代といっても100年前の現代ですけど。
要するに、日本の開化って外圧によるものだから、開化も上滑りしてる……ということですね。
内発的に開化しないと意味がない……というような主旨なんですけど。

はい、日本ってアジアの端っこにくっついてるような島国だから、自発的内発的開化を待ってたら100年たっても無理だろうし(今も外圧でしか変化できない国だし)、まさか漱石先生もここまでとは予想しなかったでしょうけど。

この場合、欧米の開化の理由を考えて、その理念を日本人も考えていくことで、内発的な開化につながる……という解釈あたりが現実路線だろうなという気がするんですが、何しろそんなのを帝国政府が推奨するわけもなく。
むしろ上滑りしたって、国力増強・富国強兵できさえすればOKみたいな国だったから、夏目漱石ももやもやしたんだろうし。

これは、100年後の我々に出された宿題だと思われます。

『中味と形式』

この講演は、本当に読み進めるのに苦労しました。
夏目漱石の本意がよくわからなくて。

中味と形式について、最初は、文章を読んで安易に要約・理論化することの危険性を説いているのかな、と思ったんですね。
わかったつもりになって、まとめようとする。でもそのまとめは、本当に中味と乖離していないのか? 的な。

しかし、読み進めるうちに、どうもそれだけではないらしいことが読めてくる。
漱石先生は、形式より中味が大事派。
中味こそが本物だ……みたいに言われたら、まあそうなんですけど。

これ、この後の講演を読んでいたら、「形式ってひょっとして江戸時代の武士道的なやつ?」と思える箇所があったりするんですね。
つまり、ホンネとタテマエ的な意味合いもあったりする?

昔の人の文章を理解するには、当時の社会がどういうものだったか、そこをまず理解しないと、なかなか読み解けないのだなあ……ということを、強く感じました。

『文芸と道徳』

この講演の中で漱石は、江戸時代(徳川氏の時代)を「理想の形を求める時代」、明治44年当時を「自然主義の時代」というふうに語っています。
だから、江戸時代に比べて、倫理観が堕落していると。

もうこの時点で、びっくりでしかありません。
いやいや、明治時代だって、庶民に参政権なかったし、女性の人権は軽んじられてたし(漱石自身も軽んじてるし)、がちがちやんって突っ込んだんですけどね。

もうね。
基準が全然違うの。

挨拶の仕方が悪ければ、刀で切られても文句言えない時代を引き合いに出されても、ねえ。
講演で登壇したときに、「緊張してます」とか弱みを平気で見せるのは「堕落してる」とか言われても、ねえ。

だから、ありのままの素の自分を出せるとして、明治44年の自然主義の時代を生きやすいとしているんですが。

しかし、当時はまだ44年しかたっていないので、江戸時代を「現代と相対する社会」と見てるんですね。
感覚的に、2013年から見た高度成長期ぐらい……でしょうか。(いや、そろそろバブルが来るかもしれない……)

そんな自然主義の時代の文芸について、自然主義文学はありのままを描くから芸術、浪漫主義文学は作為を込めるからいまいち……というように読めたんですが。
不勉強ながら、明治期の文学をほぼ読んでないので、そういう状態では文意の理解が難しくて。
教養って大事だなと。

『私の個人主義』

個人主義は、国家主義と対立するものではなく、国家を脅かすものでもなく。
各々の自由と個性を尊重するために、権力者や金力者(金持ちや資本家)は、庶民の個性や自由を曲げることなく尊重するための倫理的人格を養う責任を負う。

それが、漱石の主張する自由のための責任なんですね。
新自由主義下で言われるような、国家に対する義務(納税の義務)ではなくて。

黙っていても権力者や金持ち・資本家は、庶民の自由を制限できるわけです。その力があるから。
しかしそれを放置していたら、庶民は個性を発揮して生きることができませんし、幸福を追求することができません。

この講演は学習院でされたもので、聴講していた学生は良家の子息なわけで、ゆくゆくは権力者・金力者として力を持つ若者たちだからこそ、あえてそういうことを言ったんでしょうね。

稼ぐために、何をやってもいいわけじゃないんだよ。
力があれば、庶民を虐げる権利があるなどと錯覚しちゃいけないんだよ。

100年後の今、言ってほしい言葉じゃないですか。

英国留学した夏目漱石だからこそ、民主主義的に触れたことで、そういうことを言えたんでしょうけど、反面、デモやストライキや女性の権利向上運動には懐疑的です。
この辺が限界なんですかね。

おわりに

100年前の講演記録を読んで思い知ったことは、日本語が読めるだけでは何も読んだことにならないことですね。

我々は、自分の生きた社会の感覚でなんでも読んでしまいますが、それでは書かれたものの本質を理解したことにはならず。
この本を理解しようとするなら、夏目漱石の著作物を全部読むだけじゃなくて、同時代の他の作家の作品も読んだ方がいいし、明治時代のことをもっと知る必要がある。
それを痛感しました。

自分にとって都合よく解釈して、いい気分になる素材として文学をとらえるなら、作品単品を読むだけでも構わないんですけど。
理解できない部分がしんどいなら、取っ組み合っていくしかない。

一冊読めば、次に読む本がどんどん湧いてくる現象って、ありますねえ。
まあ、その湧いてきたものに全部反応していたら、からだがもたないんですけど。
人生は有限なので。

ということで、ここまでお付き合いいただきありがとうございました。



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