見出し画像

古本市のない生活⑤「古本屋さんに間違えられる」

古本屋や古本市に足を運び続けると、出会いは「古本」にとどまらない。
古本屋の店主や古本好きの先輩方など、素敵な「人」との出会いもある。
私が古本屋・古本市が好きなのは、この「古本+人」との出会いがあるからだと言っていいだろう。
出会いは、現実の会場だけではない。
ツイッターを開けば、毎日誰かが「古本」に纏わる呟きを発している。「また購入してしまった……」という満足と後悔の入り混じったツイートから、古本屋店主イチオシの商品紹介にいたるまで、魅力的なものばかりだ。
私もその魅力的な一群の中に入り込んで、古本のツイートを続けていきたい。そんなことを考えながら、今日も古本のことを呟くーーといいたいところだが、いまは感染症の影響でそれが難しい状況となってしまった。

今回は、ある哲学者の言葉を通して、「本」そのものとの向き合い方について考えていきたいと思う。

_____________________
○今回の一冊:河野与一「作らず・書かず・ただ読む人」(原二郎編『新編 学問の曲り角』岩波文庫)

物を書くのがしょうばいの新聞記者でありながら筆を執るのを億劫がっていた叔父が、よく青年の私に「僕は第一流の読者だ」と言って聴かせた。読んだ本を片っ端から忘れて行くから同じ本が何遍でも読めるというのである。なるほど漱石の『三四郎 それから 門』の厚ぼったい小型の合本などは、敬虔な信者のバイブルのようにぼろぼろになっていた。しかし本屋さんとすれば、こういうのは困った相手であろう。」(P88)

まずはいったん引用するのをとめる。
この文章では、河野与一の叔父の「本」との向き合い方が語られている。
読んだ本の内容を片っ端から忘れていくという叔父は、夏目漱石の『三四郎 それから 門』を何度も読み返している。
すっかり本はボロボロ。
まるで敬虔な信者のバイブルのようだと河野与一は語る。
一冊の本を何度も読み返すという経験は、私に最も不足する読書体験であると言ってもいい。
お金の許すかぎり、本屋と古本屋で本を購入して、できるだけ多くの本に触れていきたい。そういう欲求が強すぎるあまり、一冊の本と何度も向き合う経験を避けてきた。
しかし最近は、その姿勢に少しだけ反省を加えることができるようになってきた。それは、自分が歳を重ねて、色々な経験をしていくに従って、初読のときは何ら感じることがなかった一冊に、再読後感動することができたという体験があったためである。(その一冊とは、村上春樹の『風の歌を聴け』であった。)

少しずつでも、自分の「本」との向き合い方に広がりが生まれていけばなと日々思う。

引用に戻りたい。

昔ドイツで物好きに買った『書籍の仕入』という本の初めのところに、「新本というものは特別な商品で、古くなっても傷んでも、売る方で附けた値段どおりに買われて行く。それが一旦古本になると、他の商品なみに市場の価格に従って、高くなったり廉くなったりする」とあった。新本にせよ古本にせよ、買って来て本箱に列べるだけでは、部屋の装飾としても「背中」の面積だけだから割が悪い。それに、廉い本はすっかり読み切っても大して元が取れないとすると、高い本の方が、とば口だけ読むとしても、能率があがると言った人がある。
 叔父の顰に倣ったわけでもないが、「ただ読む人」と名乗っていた頃は、神田、本郷、早稲田、さては渋谷、浅草、高円寺あたりまで、まめに古本を漁り歩いて、若い古本屋さんたちと一緒にいたために、同業者の一人と間違われたことまであるのに、この節は一週に一度必ず神田まで出掛けながら、あの軒を列べている本屋を覗く機会が殆どなくなったのは、昔月々出せた本代が今では税の方へ廻ってしまうせいもあろうし、少し分厚な本だと、手に取って見て、一体これを読む時間が自分にこの先まだ残されているか知らと考えるせいもあろう。或いはそれよりも、この頃は何を読むにしてもなんだか人に頼まれてする仕事のような気がして来たためかと思われる。しかしあの頃にしても、今に何かのためになるという下心から頁を繰っていたのではないかと反省して見ると、なかなか「ただ読む人」にはなれないものだという、口惜しいような、きまりが悪いような、情ないような心持がする。
」(P88~89)

私はこの文章中のエピソードに強く共感を覚えた。
そのエピソードとは、「まめに古本を漁り歩いて、若い古本屋さんたちと一緒にいたために、同業者の一人と間違われた」である。
私もこれまでに何度か「古本屋の方かと思っていました」と声をかけられてきた。それはTwitter上で交流している人と、実際に顔をあわせた際に言われることが多い。
それもそのはず。私は古本市のレポートとして、これでもかと古本市の写真をツイートしたり、「古本」に対する想いを呟いたりと、日頃から「古本」のことばかりツイートしてきた。そうするとはたから見れば、「古本にまつわる仕事をしている人なのだろう」と思われても仕方がないと言える。
わたしは、自身が「古本屋の人」だと思われることについて、「嬉しい」以外の感情は持ち合わせていない。
「古本屋の店主」ほど憧れの職はなく、自分に才能と経済的余裕があれば、すぐにでも古本屋運営に乗り出したいぐらいである。

引用文の後半部分では、「純粋に本を読むこと」についての、河野の考えが纏められている。
本を読むときには、ただ中身を純粋に楽しむことに加えて、それを自身の成長に繫げたいと思うことは多い。人生には終わりがある以上、幾つかの要素をもって一冊の本を選択し読んでいかなければならない。
そこにときに疑念が生じたとしてもである。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「春の古書大即売会」の中止を契機として始めた「古本市のない生活」は、なんとか目標通り五日続けて投稿することができた。
結果、「古本」のことを考えて文章を書いている最中、「本来ならこの時間、古本市の会場にいるんだよなー」と悲しい気持ちになることもあったが、改めて自身が「古本好き」であることを確認するいい機会ともなった。

外出自粛期間はいつまで続くのか。ーーそこがはっきりしない以上、当分は「古本市のない生活」が続くことになる。
また機会をみて、自分の古本愛を文章にしたいと思いますので、そのときはお付き合いください。

ご覧頂きありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?