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在野研究一歩前(15)「読書論の系譜(第一回):澤柳政太郎編『読書法』(哲学書院、1892)①」

 今回取り上げる「読書論」は、澤柳政太郎編『読書法』(哲学書院、1892)である。
 まず「澤柳政太郎」という人物について簡単に紹介したい。

父は松本藩士。明治21年(1888)帝国大学文科大学卒。同年文部省に入省するが、25年辞任。以後、群馬県立尋常中学校、第二高等学校、第一高等学校等の校長に就任。学校騒動を生徒との話し合いによって解決するなど、「名校長」と称された。31年文部省普通学務局長に就任し、33年文部官僚として小学校令を改正し、義務教育を4年から6年に延長した。39年文部次官を経て、44年東北帝国大学初代総長、大正2年(1913)京都帝大総長となるが、教授の任免をめぐる「澤柳事件」により翌年辞任。5年帝国教育会会長に就任。6年成城小学校を創設し、児童の自発性を重んずる新教育運動を主導した。明治42年(1909)貴族院議員に勅選。文学博士。(http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/527.htmlより引用)

 「澤柳政太郎とは何者か」を一言で説明すれば「教育者」である。当時の尋常中学校、高等学校で校長を、帝国大学での総長を務めた経歴から、そう表現していいだろう。ちなみに、引用文にある「澤柳事件」とは、1913年7月、京都帝国大学総長に就任してから2か月を迎えていた澤柳が、教学の刷新をはかって、天谷千松・吉田彦六郎・横堀治三郎・三輪恒一郎・村岡範為馳・吉川亀次郎・谷本富、以上7人に辞表を提出させ、8月に免官を発令したことで騒動に発展した事件である。これにより澤柳は、総長生活を終えることになった。
 
 澤柳政太郎は教育者である、それは分かった。ならば、なぜこの書籍『読書法』を取り上げるのか。その理由は単純である。
 私の知る限りにおいて、この書籍は「速読」について初めてきちんと言及した本だからである。
 勿論、「速読」という言葉を使わずに、「本を速く読むこと」について何らかの意見を纏めている書籍は、1892年以前にも存在するだろう。ただ明確に「速読」という語により節を設けて、自論を展開している本はない。
 
 私が「速読」に重点を置いて、この本を選んだのにも理由がある。
 昨今、本屋に足を運んで目にする「読書論」関連書籍において、最も多くその「スキル」の習得が勧められているのが、「速読術」なのである。勿論一言で「速読術」といっても、執筆者によってその「定義」は異なるし、習得のための段階も異なる。そのような状況に触れていると、「結局、速読って……」と頭が混乱してくる。
 この頭の混乱を何とか解消するために、近代日本の初期の「読書論」において、「速読」がどのように捉えられていたのかを確認したい。
 それでは中身に入っていく。

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 『読書法』は澤柳の手により執筆された書籍であるが、「澤柳政太郎著」ではなく「澤柳政太郎編」になっている。これは、澤柳が本書を執筆するにあたって、その内容の多くを海外の「読書論」に依っているという自覚によるものである。
 本書は「緒言」と「第一章から第十章の10章」で構成されている。今回はその内の「緒言」と「第一章」において、重要な主張であると思われる文章を引用し、感想を述べていきたいと思う。

「緒言」(該当ページ:P1~4)↓
「曩(さき)に出版月評の發刊あり以て世間の讀書家をして書籍の撰擇に就き幾分の便益を得せしめたりと雖も、其主とする所は新刊の書籍に就て其良非正謬を評論するに止まりて、讀書の方法を講究指示するものにあらず」(P3)
⇒澤柳政太郎が本書を執筆していた当時(1890年代)においては、個別の書籍についての論評は盛んに行なわれていてそれなりに有意義であったが、そこから本との向き合い方が見出せるわけではなかった、とする。

「第一章」(該当ページ:P7~15)↓
「今世の少年子弟か読書の状を視るに甚た憂ふへきものあり、他なし朝に一書を繙きて夕に新書を購ひ、今日甲巻を漫讀して明日乙巻を手にす、是を以て終日巻を放たさる勉強家も遂に一事の進むなく一技の得ることなく一業の修むるなく局忙歳月を經るに至る、悲まさるへけんや」(P10~11)
⇒世間の人の「読書」状況は、少年子弟の場合は言うに及ばず、常に本と向き合っている勉強家を取り上げてみても、けっして芳しくないと述べる。彼らは本を通して十分に知識・技能を獲得しているとは言えず、虚しく時間を消費しているだけのようにも見える。

「今日少年子弟か書を讀みて格別の利益を得さるは其適當の方法を知らさるに職由せすんはあらす、是れ讀書法の今日に最必要なる所以なり」(P12)
⇒少年子弟が読書後に十分な利益を得ることができていないのは、彼らが「読書法」を知らないからである。

「讀書法は書を讀むものヽ服膺遵守すへき規則を叙述せしものにして能く讀書の方則を守り之に據り以て讀書するときは、即ち心力を勞すること少く時間を費すこと少くして充分の功益を収むるを得へし」(P12~13)
⇒「読書法」は読書に取り組むすべての人が遵守すべき規則である。「読書法」を守りさえすれば、読書において無駄に疲れを覚えたり、時間を浪費することもなく、利益を獲得することが可能となる。

(読書術の利益六点として)
「一、精神を徒勞することなからしむ、
 二、時間を空費することなからしむ
 三、精神を勞し時間を費すこと少くして反て大に智識を増進し能力を開發せしむ、
 四、記憶力を補助すること大なり
 五、明確の思想を得しむ、
 六、書籍の撰擇を誤まることなからしむ」(P14~15)

⇒ここでは「読書法」を習得することの利点が六点として纏められている。「一~四」までは、これまで引用してきた文章内で繰り返し語られてきた内容と重なる。「五、明確の思想を得しむ」については、澤柳が「読書」というものを、ただ頭に知識を詰め込むだけのものとは捉えずに、習得した各知識を批判検討することによって、自分なりの「思想」を生み出すことにも繫がるものと認識していることが分かる。「六、書籍の撰擇を誤まることなからしむ」も「五」と深く関係し、自分の中に書籍を選ぶ明確な「判断基準」を持つことは、「思想」を紡いでいくことにも繫がっている。

 以上、本書中から五箇所を引用した。全体から言えることは、次のようになる。

①澤柳は当時の人びとの「読書」状況を、改善すべきものとして見ていた。
②読書する人にとって「読書術」の習得は必須。
③「読書」の積み重ねの先には、自身の「思想」の構築がある。

 以上「在野研究一歩前(15)「いつの時代も読書論(第一回):澤柳政太郎編『読書法』(哲学書院、1892)①」を終ります。次稿でも『読書法』の中身に触れていきたい。

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